《たず》ねに来るついでにここへも来て、あなたと御交際の道を開きたいように言っていましたから、お許しになって話してごらんなさい。善良な性質の人ですよ。まだ若々しくてあなたの遊び相手もできそうですよ」
 とお語りになった。
「恥ずかしいでしょうね。どんなお話をすればいいのでしょうね」
 とおおように宮は言っておられる。
「人にする返辞は先方の話次第で出てくるものです。ただ好意を持ってお逢いにならないではいけませんよ」
 院はこまごまと御注意をされた。院は御両妻の間が平和であるように祈っておいでになるのである。あまりにたあいのない子供らしさを紫の女王に発見されることは、御自身としても恥ずかしいことにお思いになるのであるが、夫人が望んでいることをとめるのもよろしくないとお考えになったのである。
 紫の女王は内親王である良人《おっと》の一人の妻の所へ伺候することになった自分を憐《あわれ》んだ。二十年|同棲《どうせい》した自分より上の夫人は六条院にあってはならないのであるが、少女時代から養われて来たために、自分は軽侮してよいものと見られて、良人は高貴な新妻をお迎えしたものであろうと思うと寂しかった。手習いに字を書く時も、棄婦の歌、閨怨《けいえん》の歌が多く筆に上ることによって、自分はこうした物思いをしているのかとみずから驚く女王であった。院は自室のほうへお帰りになった。あちらで女三の宮、桐壺《きりつぼ》の方などを御覧になって、それぞれ異なった美貌《びぼう》に目を楽しませておいでになったあとで、始終見|馴《な》れておいでになる夫人の美から受ける刺激は弱いはずで、それに比べてきわだつ感じをお受けになることもなかろうと思われるが、なお第一の嬋妍《せんけん》たる美人はこれであると院はこの時|驚歎《きょうたん》しておいでになった。気高《けだか》さ、貴女《きじょ》らしさが十分備わった上にはなやかで明るく愛嬌《あいきょう》があって、艶《えん》な姿の盛りと見えた。去年より今年は美しく昨日より今日が珍しく見えて、飽くことも見て倦《う》むことも知らぬ人であった。どうしてこんなに欠点なく生まれた人だろうかと院はお思いになった。手習いに書いた紙を夫人が硯《すずり》の下へ隠したのを、院はお見つけになって引き出してお読みになった。字は専門家風に上手《じょうず》なのではなく、貴女らしい美しさを多く含んだものである。

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身に近く秋や来ぬらん見るままに青葉の山もうつろひにけり
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 と書かれてある所へ院のお目はとまった。

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水鳥の青羽は色も変はらぬを萩《はぎ》の下こそけしきことなれ
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 など横へ書き添えておいでになった。何かの場合ごとに今日の夫人の懊悩《おうのう》する心の端は見えても、さりげなくおさえている心持ちに院は感謝しておいでになるのであった。今夜はどちらとも離れていてよい暇な時であったから、朧月夜《おぼろづきよ》の君の二条邸へ院は微行でお出かけになった。あるまじいことであるとお思い返しになろうとしても、おさえきれぬ気持ちがあったのである。
 東宮の淑景舎《しげいしゃ》の方は実母よりも紫夫人を慕っていた。美しく成人した継娘《ままむすめ》を女王は真実の親に変わらぬ心で愛した。なつかしく語り合ったあとで中の戸をあけて、宮のお座敷へ行き、はじめて女三《にょさん》の宮《みや》に御面会した。ただ少女とお見えになるだけの宮様に女王は好感が持たれて、軽い気持ちにもなり年長の人らしく、保護者らしいふうにものを言って、宮の母君と自身の血の続きを語ろうとして、中納言の乳母《めのと》というのをそばへ呼んで言った。
「さかのぼって言いますとそうなのですね。私の父の宮とお母様は御兄弟なのです。ですからもったいないことですが親しく思召《おぼしめ》していただきたいと申し上げたかったのですが、機会がございませんでね。これからはお心安く思召して、私どもの住んでおりますほうへもお遊びにおいでくださいまして、気のつきませんことがございまして、御注意をいただけましたらうれしく存じます」
 中納言の乳母が、
「お母様にもお死に別れになりますし、院の陛下は御出家をあそばしますし、お一人ぼっちのお心細い宮様ですから、御親切なお言葉をいただきますことは、この上なく幸福に思召すかと存ぜられます。法皇様も宮様があなた様を御信頼あそばして御保護の願えますようにとの思召しがおありあそばすらしく存じ上げました。私どももそのお言葉を承ってまいったのでございます」
 などと言った。
「もったいないお手紙をあちらからくださいました時から、どうかしてお力にならなければと心がけてはいるのでございますが、何と申しても私が賢くなくて」
 とあたたかい気持ちを女王は見せて、姉が年少の妹に対するふうで、宮のお気に入りそうな絵の話をしたり、雛《ひな》遊びはいつまでもやめられないものであるとかいうことを若やかに語っているのを、宮は御覧になって、院のお言葉のように、若々しい気立ての優しい人であると少女《おとめ》らしいお心にお思いになり、打ち解けておしまいになった。
 これ以来手紙が通うようになって、友情が二人の夫人の間に成長していった。書信でする遊び事もなされた。世間はこうした高貴な家庭の中のことを話題にしたがるもので、初めごろは、
「対の奥様はなんといっても以前ほどの御|寵愛《ちょうあい》にあっていられなくなるであろう。少しは院の御情が薄らぐはずだ」
 こんなふうにも言ったものであるが、実際は以前に増して院がお愛しになる様子の見えることで、またそれについて宮へ御同情を寄せるような口ぶりでなされる噂《うわさ》が伝えられたものであるが、こんなふうに寝殿の宮も対の夫人も睦《むつ》まじくなられたのであるからもう問題にしようがないのであった。
 十月に紫夫人は院の四十の賀のために嵯峨《さが》の御堂《みどう》で薬師仏の供養をすることになった。たいそうになることは院がとめておいでになったから、目だたせない準備をしたのであった。それでも仏像、経箱、経巻の包みなどのりっぱさは極楽も想像されるばかりである。そうした最勝王経、金剛、般若《はんにゃ》、寿命経などの読まれる頼もしい賀の営みであった。高官が多く参列した。御堂のあたりの嵯峨野の秋のながめの美しさに半分は心が惹《ひ》かれて集まった人なのであろうが、その日は霜枯れの野原を通る馬や車を無数に見ることができた。盛んな誦経《ずきょう》の申し込みが各夫人からもあった。二十三日が仏事の最後の日で、六条院は狭いまでに夫人らが集まって住んでいるため、女王には自身だけの家のように思われる二条の院で賀の饗宴《きょうえん》を開くことにしてあった。賀の席上で奉る院のお服類をはじめとして当日用の仕度《したく》はすべて紫夫人の手でととのえられているのであったが、花散里《はなちるさと》夫人や、明石《あかし》夫人なども分担したいと言い出して手つだいをした。二条の院の対の屋を今は女房らの部屋《へや》などにも使わせることにしていたのであるが、それを片づけて殿上役人、五位の官人、院付きの人々の接待所にあてた。寝殿の離れ座敷を式場にして、螺鈿《らでん》の椅子《いす》を院の御ために設けてあった。西の座敷に衣裳《いしょう》の卓を十二置き、夏冬の服、夜着などの積まれたそれらの上を紫の綾《あや》で覆《おお》うてあるのも目に快かった。中の品物の見えないのも感じがいいのである。椅子の前には置き物の卓が二つあって、支那《しな》の羅《うすもの》の裾《すそ》ぼかしの覆《おお》いがしてある。挿頭《かざし》の台は沈《じん》の木の飾り脚《あし》の物で、蒔絵《まきえ》の金の鳥が銀の枝にとまっていた。これは東宮の桐壺の方が受け持ったので、明石夫人の手から調製させたものであるからきわめて高雅であった。御座《おまし》の後ろの四つの屏風《びょうぶ》は式部卿《しきぶきょう》の宮がお受け持ちになったもので、非常にりっぱなものだった。絵は例の四季の風景であるが、泉や滝の描《か》き方に新しい味があった。北側の壁に添って置き棚が二つ据《す》えられ、小物の並べてあることは定《きま》った形式である。南側の座敷に高官、左右の大臣、式部卿の宮をはじめとして親王がたのお席があった。舞台の左右に奏楽者の天幕ができ、庭の西と東には料理の箱詰めが八十、纏頭《てんとう》用の品のはいった唐櫃《からびつ》を四十並べてあった。午後二時に楽人たちが参入した。万歳楽、皇※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《こうじょう》などが舞われ、日の暮れ時に高麗《こうらい》楽の乱声《らんじょう》があって、また続いて落蹲《らくそん》の舞われたのも目|馴《な》れず珍らしい見物であったが、終わりに近づいた時に、権中納言と、右衛門督《うえもんのかみ》が出て短い舞をしたあとで紅葉《もみじ》の中へはいって行ったのを陪観者は興味深く思った。昔の朱雀《すざく》院の行幸《みゆき》に青海波が絶妙の技であったのを覚えている人たちは、源氏の君と当時の頭《とうの》中将のようにこの若い二人の高官がすぐれた後継者として現われてきたことを言い、世間から尊敬されていることも、りっぱさも美しさも昔の二人の貴公子に劣らず、官位などはその時の父君たち以上にも進んでいることなどを年齢《とし》までも数えながら語って、やはり前生の善果がある家の子息たちであると両家を祝福した。六条院も涙ぐまれるほど身にしむ追憶がおありになった。夜になって楽人たちの退散していく時に紫の夫人付きの家職の長が下役たちを従えて出て、纏頭品の箱から一つずつ出して皆へ頒《わか》った。白い纏頭の服を皆が肩にかけて山ぎわから池の岸を通って行くのをはるかに見ては鶴《つる》の列かと思われた。席上での音楽が始まっておもしろい夜の宴になった。楽器は東宮の御手から皆呈供されたのである。朱雀《すざく》院からお譲られになった琵琶《びわ》、帝《みかど》からお賜わりになった十三|絃《げん》の琴などは六条院のためにお馴染《なじみ》の深い音色《ねいろ》を出して、何につけても昔の宮廷がお思われになる方であったから、またさまざまの恋しい昔の夢をお描《か》かせした。入道の宮がおいでになったなら四十の御賀も自分が主催して行なったことであろう。今になっては何を志としてお見せすることができよう、すべて不可能なことになったと院は御|歎息《たんそく》をあそばした。女院をお失いになったことは何の上にも添う特殊な光の消えたことであると帝も寂しく思召すのであって、せめて六条院だけを最高の地位に据《す》えたいというお望みも実現されないことを始終残念に思召す帝であったが、今年は四十の賀に託して六条院へ行幸《みゆき》をあそばされたい思召しであった。しかしそれも冗費は国家のためお慎みになるようにと六条院からの御進言があっておできにならぬためにくやしく思召すばかりであった。
 十二月の二十日過ぎに中宮《ちゅうぐう》が宮中から退出しておいでになって、六条院の四十歳の残りの日のための祈祷《きとう》に、奈良《なら》の七大寺へ布四千反を頒《わか》ってお納めになった。また京の四十寺へ絹四百|疋《ぴき》を布施にあそばされた。養父の院の深い愛を受けながら、お報いすることは何一つできなかった自分とともに、御父の前皇太子、母|御息所《みやすどころ》の感謝しておられる志も、せめてこの際に現わしたいと中宮は思召したのであるが、宮中からの賀の御沙汰《ごさた》を院が御辞退されたあとであったから、大仰《おおぎょう》になることは皆おやめになった。
「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」
 と六条院は言っておいでになったのであるが、やはりこれは半公式の賀宴で派手《はで》になった。六条院の中宮のお住居《すまい》の町の寝殿が式場になっていて、前
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