源氏物語
若菜(上)
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天《あめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|年齢《とし》よりも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)皇※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]など
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[#地から3字上げ]たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天《あめ》
[#地から3字上げ]よりこしをうたがはねども (晶子)

 あの六条院の行幸《みゆき》のあった直後から朱雀《すざく》院の帝《みかど》は御病気になっておいでになった。平生から御病身な方ではあったが、今度の病におなりになってからは非常に心細く前途を思召《おぼしめ》すのであった。
「私はもうずっと以前から信仰生活にはいりたかったのだが、太后がおいでになる間は自身の感情のおもむくままなことができないで今日に及んだのだが、これも仏の御催促なのか、もう余命のいくばくもないことばかりが思われてならない」
 などと仰せになって、御出家をあそばされる場合の用意をしておいでになった。皇子は東宮のほかに女宮様がただけが四人おいでになった。その中で藤壺《ふじつぼ》の女御《にょご》と以前言われていたのは三代前の帝の皇女で源姓《みなもとせい》を得た人であるが、院がまだ東宮でいらせられた時代から侍していて、后《きさき》の位にも上ってよい人であったが、たいした後援をする人たちもなく、母方といっても無勢力で、更衣《こうい》から生まれた人だったから、競争のはげしい後宮の生活もこの人には苦しそうであって、一方では皇太后が尚侍《ないしのかみ》をお入れになって、第一人者の位置をそれ以外の人に与えまいという強い援助をなされたのであったから、帝も御心《みこころ》の中では愍然《びんぜん》に思召しながら后に擬してお考えになることもなく、しかもお若くて御退位をあそばされたあとでは、藤壺の女御にもう光明の夢を作らせる日もなくて、女御は悲観をしたままで病気になり薨去《こうきょ》したが、その人のお生みした女三《にょさん》の宮《みや》を御子《みこ》の中のだれよりも院はお愛しになった。このころは十三、四でいらせられる。世の中を捨てて山寺へはいったあとに、残された内親王はだれをたよりに暮らすかと思召されることが院の第一の御苦痛であった。西山に御堂《みどう》の御建築ができて、お移りになる用意をあそばしながらも、一方では女三の宮の裳着《もぎ》の挙式の仕度《したく》をさせておいでになった。貴重な多くの御財産、美術の価値のあるお品々などはもとより、楽器や遊戯の具なども名品に近いような物は皆この宮へお譲りになって、その他の御財産、お道具類を他の宮がたへ御分配あそばされた。
 東宮は院の重い御病気と、御出家の御用意のあることをお聞きになって、お見舞いの行啓をあそばされた。母君の女御もお付き添いして行った。殊寵《しゅちょう》があったわけではないが、東宮の御母となる宿縁のあった人を御尊重あそばされて、院はこの方にもこまやかにお話をあそばされた。東宮にも帝王とおなりになる日のお心得事などをお教えあそばされるのであった。御|年齢《とし》よりも大人《おとな》びておいでになったし、御後援をする人が母方のそばにも多くある方であったから、院は御安心をしておいでになるのである。
「私はもうこの世に遺憾だと心に残るようなこともない。ただ内親王たちが幾人もいることで将来どうなるかと案ぜられることは、今の場合だけでなくこの世を離れる際にも絆《ほだし》になるであろうと思われる。今まで一般の世の中に見ていても、女というものは、その人の意志でもなしに、ほかから働きかける者のために悪名も立てられ、恥辱も受けるような運命になっていくのがかわいそうだ。どの姉妹《きょうだい》にもあなたの御代《みよ》が来た時にはあたたかい庇護を加えてやってもらいたい。その中でも後見をする母などのついている者は託して行く所があるような気もしてまずいいが、女三の宮は年のゆかないのに母のない内親王なのだから、私だけをたよりにして育ってきたことを思うと、私が寺へはいったあとではどんな心細い身の上になることかと気がかりでならない」
 と、涙をお拭《ぬぐ》いになりながら東宮へ後事をお頼みになるのであった。母君の女御にも信じ切ったようにして院は女三の宮のことを仰せになった。とはいっても昔宮中にあった時代には、内親王の御母の女御は格別な御|寵愛《ちょうあい》を得ていて、この方にとっては強力な競争者だったのであるから、その宮にまで憎悪《ぞうお》を持つわけはないが真心からお世話をする気にはなれなかったであろうと想像される。
 院は明けても暮れても女三の宮の将来についてばかり御心配をあそばされるせいもあって、年末が近づいてから御容態がいちじるしくお悪くなり、御簾《みす》の外へおいでになることもなくなった。これまでも妖気《もののけ》がもとでおりおりお煩《わずら》いになることはあっても、こんなに続いて永《なが》く御容態のすぐれぬようなことはなかったのであるから、御自身では御命数の尽きる世が来たというように解釈をあそばすのであった。御退位になってからも御在位時代に恩顧を受けた人たちは、今も優しく寛容な御性質をお慕い申し上げて、屈託なことのある時の慰安を賜わる所のようにして参候する慣《なら》いになっていて、その人たちは院の御悩《ごのう》の重いのを皆心から惜しみ悲しんでいた。六条院からもお見舞いの使いが常に来た。そのうち御自身でもおいでになりたいという御通知のあった時、院は非常にお喜びになった。六条院の御子の源中納言が参院した時に、御病室の御簾《みす》の中へお招きになり、朱雀《すざく》院はいろいろなお話をあそばされた。
「お崩《かく》れになった陛下が御|終焉《しゅうえん》の前に私へいろいろな御遺言をなされたのだが、その中で特に六条院と今の陛下のことについては熱心に仰せられて私へお託しになったのだが、帝王というものになっては、自分の意志を単純に実行へ移すことのできない点があってね。個人としての愛は少しも変わらなかったが、しかも私の過失によって、あの方にとって私が恨めしかっただろうと思うこともしたのに、今日までそれに対する復讐的なことは何の端にもお見せにならない。どんな賢人でも自身の問題になると恨むことも憎むことも凡人どおりにすることからいろいろな事件の起こるのは歴史の上にあることだからね。機会があれば私への復讐が姿になって現われることであろうと、世人も言うことだったし、私自身も罰を受ける気でいたのだが、あの方に見たのは絶対の愛だけだった。東宮などにも好意をお寄せになったり、また現在では婿舅《むこしゅうと》の関係までも作っていただいているのを私はどんなに感激しているかしれないが、愚かな上に盲目的な親の愛までも暴露してお目にかけることも恥ずかしくて、父である私が東宮に対してかえって冷淡なふうをしている。陛下のことは院の御遺言どおりに万事計らって位をお譲り申し上げたから、この聖天子を国民がいただきうることになり、私の不名誉まで取り返していただいている。これだけは意志を強くして遂行なしえた善事だと信じて満足している。六条院にこの秋の行幸の節にお目にかかった時から、私の心にはしきりに青春時代の兄弟間の愛が再燃してお目にかかりたくてならない。直接お目にかかってお話し申したいこともある。ぜひ御自身でおいでくださるようにあなたからもお勧めしてほしい」
 などとしおれたふうで院が仰せられたのである。
「御過失でございましたか、正当な御処置でございましたか、昔のことは今になって御批評の申し上げようもございません。私が大人になりまして一官吏の職を奉じますようになりましてから、私のために院がいろいろの注意を実例によってお与えくださいます際などにも、自分は冤罪《えんざい》によってどんなことが過去にあったというようなことを少しでも仰せになることはございません。一生を通じて陛下の御補佐をすべきであるのを、人生を静かに考えたい欲求から中途で閑散な地位に移らせていただいたために、故院の御遺言もお守りできぬことになり、またあなた様に対しては御在位の節には若輩であり、力もなく、上のかたがたが多くおいでにもなって、御自身の至誠をお尽くしする機会がなかったと申されまして、静かな御環境においでになります今日はせめてたびたび御訪問も申し上げてお話も承りたいのを、さすがに事の大仰《おおぎょう》になるのに遠慮されて御無沙汰《ごぶさた》を申し上げているとこんなことをおりおり歎息《たんそく》しておいでになるのでございます」
 などと中納言は申し上げた。二十歳《はたち》に少し足らぬのであるが、すべてが整って美しいこの人に院の御目はとまって、じっと顔をおながめになりながら、どう処置すべきかと御|煩悶《はんもん》あそばされる姫宮を、この中納言に嫁《とつ》がせたならと人知れず思召《おぼしめ》された。
「太政大臣の家に行っているそうだね。長い間私なども大臣の態度を腑《ふ》に落ちなく思っていたところ、円満な結果を得てよいことと思っているが、またどうしたことか大臣がうらやまれもしてね」
 との院の仰せを不思議に思って中納言は考えてみたが、それは女三の宮のお身の上をとやかくとお案じになって、相当な人があれば結婚をさせて安心して宗教の中へはいりたいという思召《おぼしめ》しが院におありになるということがほかから耳にもはいっていたことであったから、その問題に触れて仰せられることかと気がついたものの、呑《の》み込み顔なお返辞はできないことであった。ただ、
「つまらない者でございますから、配偶者を得ますこともとかく困難でございまして」
 と申し上げるのにとどめた。
 のぞき見をしていた若い女房たちが、
「珍しい美男でいらっしゃる。御様子だってねえ、なんというごりっぱさでしょう」
 集まってこんなことを言っているのを、聞いていた老《ふ》けたほうに属する女房らが、
「それでも六条院様のあのお年ごろのおきれいさというものはそんなものではありませんでしたよ。比較には、まあなりませんね、それはね、目もくらんでしまうほどお美しかったものですよ」
 と言っても、若い人たちは承知をしない。こうした争いのお耳にはいった院が、
「そのとおりだよ。あの人の美は普通の美の標準にはあてはまらないものだった。近ごろはまたいっそうりっぱになられて光彩そのもののような気がする。正しくしていられれば端麗であるし、打ち解けて冗談《じょうだん》でも言われる時には愛嬌《あいきょう》があふれて、二人とないなつかしさが出てくる。何事にもどうした前生の大きな報いを得ておられる人かとすぐれた点から想像させられる人だ。宮廷で育って、帝王の愛を一身に集めるような幸福さがあって、まったくだよ。故院は御自身の命にも代えたいほど御大切にあそばしたものだが、それで慢心せず謙遜《けんそん》で、二十歳《はたち》までには納言にもならなかった。二十一になって参議で大将を兼ねたかと思う。それに比べると中納言の官等の上がり方は早い。子になり孫になりして威福の盛んになる家らしい。実際中納言は秀才であり、確かな教養を受けている点で昔の光源氏にあまり劣るまい。父君の昔に越えて幸福な道を踏んでもそれが不当とも思えない偉さが彼《あれ》にある」
 と御|甥《おい》をほめておいでになった。可憐《かれん》な姫宮の美しく無邪気な御様子を御覧になっては、
「十分愛してくれて、足りない所は蔭《かげ》で教育してくれるような、そして安心して託せるような人を婿に選びたい気がする」
 などと仰せられた。
 乳母《めのと》の中でも上級な人たちをお呼び出しになって、裳着《もぎ》の式の用意についていろいろお命じになることのあったついでに、院は、
「六条院が式部卿《しきぶきょう》の宮の女王《にょおう》を育て上
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