を得るようにしてくれれば、私はそっと訪《たず》ねて行く。今はもう絶対にそんなこともできない身の上になっている私が、そうしようと思うのだから、あちらでも秘密にしていただけるだろうと安心はしている」
そのお話を中納言の君から聞いた時に、尚侍は、
「それは必要のない会見よ。私はもうあの時のような幼稚な心で人生を見ていない。昔から真実の欠けた愛しか私には持ってくださらなかった方の御誘惑などに今さらかからない。お気の毒な御生活に法皇様をお置きして、あの方とする昔の話など私にはない。お言葉どおり秘密にはするとしても私自身の心に恥ずかしいことではないか」
と歎息《たんそく》して、なおそういうことは思いもよらぬことであるというお返事ばかりをしていた。すべてのものを無視して、苦しい中で愛し合った二人ではないか、出家をあそばされた院に対してやましいことではあるが、かつてなかったことではない関係なのだから、今になって清浄がっても昔の浮き名をあの人が取り返すことはできないのだと、こう院はお思いになって、にわかにこの和泉守を案内役として朧月夜の尚侍の二条の宮を訪ねる決心を院はあそばされたのであった。夫人の女王へは、
「東の院にいる常陸《ひたち》の宮の女王がずっと病気をしておられるのですが、ここの取り込みに紛れて見舞ってあげなかったのがかわいそうなのだが、昼間は人目に立ってよろしくないから夜になってから出かけてみようと思います。だれにも知らせないことだからそのつもりにしておくのですよ」
と、お言いになって、院は外出の化粧におかかりになったが、ただ事とは思われなかった。平生はそんなにしてお行きになる所ではないのであるから夫人は不審をいだいたが、思い合わされることもないではないのを、女三《にょさん》の宮《みや》がおいでになってからは、以前のように思うことをすぐに言う習慣も女王は改めていて、素知らぬふうを作っているのであった。
この日は寝殿へもお行きにならないでただ手紙をお書きかわしになっただけである。熱心に薫香《たきもの》の香を袖《そで》につけて、院は日の暮れるのを待っておいでになった。そしてきわめて親しい人を四、五人だけおつれになり、昔の微行《しのびあるき》に用いられた簡単な網代車《あじろぐるま》でお出かけになった。
六条院のおいでになったことが伝えられると、
「どうしてでしょう。私のお返事をどう聞き違えて申し上げたのだろう」
尚侍は機嫌《きげん》を悪くしたが、
「いいかげんな口実を作りましてお帰しいたすことなどはもったいないことでございましょう」
と中納言の君は言って、無理な計らいまでして院を座敷へ御案内してしまった。院は見舞いの挨拶《あいさつ》などをお取り次がせになったあとで、
「ただここに近い所へまで出てくだすって、物越しでもお話しくださいませんか。今日はもう昔のような不都合なことをする心を持っていませんから」
こう切に仰せられるので、尚侍はひどく歎息《たんそく》をしながら膝行《いざっ》て出た。だからこの人は軽率なのであると、満足を感じながらも院は批評をしておいでになった。これは二人にとって絶えて久しい場面であった。遠い世の思い出が女の心によみがえらないことでもないのである。東の対であった。東南の端の座敷に院はおいでになって、隣室の尚侍のいる所との間の襖子《からかみ》には懸金《かねがね》がしてあった。
「何だか若者としての御待遇を受けているようで、これでは心が落ち着かないではありませんか。あれからどれだけの年月、日は幾つたつということまでも忘れない私としては、あなたのこの冷たさが恨めしく思われてなりませんよ」
と、院はお恨みになった。夜はふけにふけてゆく。池の鴛鴦《おしどり》の声などが哀れに聞こえて、しめっぽく人けの少ない宮の中の空気が身にお感じられになり、人生はこんなに早く変わってしまうものかと昔の栄華の跡の邸《やしき》がお思われになると、女の心を動かそうとして嘘《うそ》泣きをした平仲《へいちゅう》ではなくて真実の涙のこぼれるのをお覚えになった。昔に変わってあせらず老成なふうに恋を説きながら、
「これはいつまでもこのままにしておくことになるのですか」
と言って、襖子を引き動かしたまうのであった。
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年月を中に隔てて逢坂《あふさか》のさもせきがたく落つる涙か
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院がこうお言いになっても、
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涙のみせきとめがたき清水《しみづ》にて行き逢ふ道は早く絶えにき
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というようなかけ離れた返辞を女はするにすぎなかったが、昔を思ってはだれが原因になってこの方は遠い国に漂泊《さすら》っておいでになったか、一人で罪をお負いになったこの方に、冷たい賢がった女にだけなって逢っていて済むだろうかと朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》の心は弱く傾いていった。もとから重厚な所の少ない性質のこの人は、源氏の君から離れていた年月の間昔の軽率を後悔していたし、清算のできた気にもなっていたのであるが、昔のとおりなような夜が眼前に現われてきて、その時と今の間にあった時がにわかに短縮された気のするままに、初めの態度は取り続けられなくなった。
やはり最も艶《えん》な貴女《きじょ》としてなお若やかな尚侍を院は御覧になることができたのであった。世に対し、人に対してはばかる煩悶《はんもん》が見えて歎息《たんそく》をしがちな尚侍を、今初めて得た恋人よりも珍しくお思いになり、海のような愛の湧《わ》くのを院はお覚えになった。夜の明けていくのが惜しまれて院は帰って行く気が起こらない。朝ぼらけの艶な空からは小鳥の声がうららかに聞こえてきた。花は皆散った春の暮れで、浅緑にかすんだ庭の木立ちをおながめになって、この家で昔|藤花《とうか》の宴があったのはちょうどこのころのことであったと院はみずからお言いになったことから、昔と今の間の長いことも考えられ、青春の日が恋しく、現在のことが身に沁《し》んでお思われになった。中納言の君がお見送りをするために妻戸をあけてすわっている所へ、いったん外へおいでになった院が帰って来られて、
「この藤《ふじ》と私は深い因縁のある気がする。どんなにこの花は私の心を惹《ひ》くか知っていますか。私はここを去って行くことができないよ」
こうお私語《ささやき》になったままで、なお花をながめて立ち去ろうとはなされないのであった。山から出た日のはなやかな光が院のお姿にさして目もくらむほどお美しい。この昔にもまさった御|風采《ふうさい》を長く見ることのできなかった尚侍が見て、心の動いていかないわけはないのである。過失のあったあとでは後宮に侍してはいても、表だった后《きさき》の位には上れない運命を負った自分のために、姉君の皇太后はどんなに御苦労をなすったことか、あの事件を起こして永久にぬぐえない悪名までも取るにいたった因縁の深い源氏の君であるなどとも尚侍は思っていた。名残《なごり》の尽きぬ会見はこれきりのことにさせたくないことではあるが、今日の六条院が恋の微行《しのびあるき》などを続いて軽々しくあそばされるものでもないと思われた。院はこの邸《やしき》における人目も恐ろしく思召《おぼしめ》されたし、日が昇《のぼ》っていくのにせきたてられるお気持ちも覚えておいでになった。廊の戸口の下へ車が着けられて、供の人たちもひそかなお促し声もたてた。院は庭にいた者に長くしだれた藤の花を一枝お折らせになった。
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沈みしも忘れぬものを懲りずまに身も投げつべき宿の藤波
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と歌いながら院はお悩ましいふうで戸口によりかかっておいでになるのを、中納言の君はお気の毒に思っていた。尚侍は再び作られた関係を恥じて思い乱れているのであったが、やはり恋しく思う心はどうすることもできないのである。
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身を投げん淵《ふち》もまことの淵ならで懸《か》けじやさらに懲りずまの波
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と女は言った。青年がするような行動を院は御自身も肯定できなくお思いになるのであるが、女の情熱の冷却してはいないことがうれしくて、またの会合を遂げうるようによく語っておゆきになった。昔も多くの中のすぐれた志で愛しておいでになりながら、やむなくお別れになった仲に、この一夜があったあとのお心はその人へ強くお惹《ひ》かれにならぬわけもない。
院は非常に静かに忍んで自室へおはいりになった。こうした女の所からのお帰り姿を見て、相手は尚侍あたりであろうと、夫人には想像されるのであったが、気のつかぬふうをしていた。かえって妬《ねた》みを表へ出すことよりもこれを院は苦しくお思いになって、なぜこうまで妻を冷淡にあつかったのであろうと歎息がされ、以前にまさった熱情をもって永久に変わらぬ愛を語ろうとあそばされるのに言葉を尽くしておいでになった。尚侍との間に復活させた情事は洩《も》らすべき性質のものではないのであるが、昔のこともくわしく知っている女王《にょおう》であったから、今度のことも真実のことまではお言いにならなかったが、
「物越しでやっと逢ってもらっただけでは心が残ってならない。人目を上手《じょうず》に繕ってもう一度だけは逢いたい人だ」
とくらいにお話しになった。女王は笑って、
「お若返りにばかりなりますわね。昔を今にまた新しくお加えになっては、いよいよ私の影は薄くばかりなります」
と言いながらも、涙ぐんだ目をしているのが可憐《かれん》であった。
「いつもそんなふうに、寂しそうにばかりあなたがするから、私はたまらなく苦しくなる。もっと荒削りに、私を打つとか捻《ひね》るとかして懲らしてくれたらどうですか。あなたにそうした水くさい態度をとらせるようには暮らして来なかったはずだが、妙にあなたは変わってしまいましたね」
などとも言って、機嫌《きげん》をお取りになるうちには前夜の真相も打ちあけて話しておしまいになることになった。姫宮のほうへお出かけにならずに、夫人をなだめるのに終日かかっておいでになった。それを宮は何ともお思いにならないのであるが、乳母たちだけは不快がっていろいろと言っていた。嫉妬《しっと》をお持ちになる傾向が宮にもあれば院はまして苦しい立場になるのであるが、おっとりとした少女《おとめ》の宮を、人形のように気楽にお扱いになることはできるのであった。
東宮へ上がっておいでになる桐壺《きりつぼ》の方は退出を長く東宮がお許しにならぬので、姫君時代の自由が恋しく思われる若い心にはこれを苦しくばかり思うのであった。夏ごろになっては健康もすぐれなくなったのであるが、なおも帰るお許しがないので困っていた。これは妊娠であったのである。まだ十四、五の小さい人であったから、この徴候を見てだれもだれも危険がった。やっとのことでお許しが下がって帰邸することになった。女三の宮のおいでになる寝殿の東側になった座敷のほうに桐壺の方の一時の住居《すまい》が設けられたのである。明石《あかし》夫人も共に六条院へ帰った。光る未来のある桐壺の方の身に添って進退する実母夫人は幸運に恵まれた人と見えた。紫夫人はそちらへ行って桐壺の方に逢おうとして、
「このついでに中の戸を通りまして姫宮へ御|挨拶《あいさつ》をいたしましょう。前からそう思っていたのですが機会がなかったのですもの。わざわざ伺うのもきまりが悪かったのですが、こんな時だと自然なことに見えていいと思います」
と院へ御相談をした。院は微笑をされながら、
「結構ですよ。まだ子供なのですから、よくいろんなことを教えておあげなさい」
と御同意をあそばされた。宮様よりも明石夫人という聡明《そうめい》な女に逢うことで夫人は晴れがましく思い、髪も洗い、粧《よそお》いに念を入れた女王の美はこれに準じてよい人もないであろうと思われた。
院は宮のほうへおいでになって、
「今日の夕方対のほうにいる人が淑景舎《しげいしゃ》を訪
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