にお受けになった幾つかの賀の式に変わらぬ行き届いた設けがされてあった。高官への纏頭《てんとう》はお后《きさき》の大|饗宴《きょうえん》の日の品々に準じて下された。親王がたには特に女の装束、非参議の四位、殿上役人などには白い細長衣《ほそなが》一領、それ以下へは巻いた絹を賜わった。院のためにととのえられた御衣服は限りもなくみごとなもので、そのほかに国宝とされている石帯《せきたい》、御剣を奉らせたもうたのである。この二品などは宮の御父の前皇太子の御遺品で、歴史的なものだったから院のお喜びは深かった。古い時代の名器、美術品が皆集まったような賀宴になったのであった。昔の小説も贈り物をすることを最も善事のように書き立ててあるが、面倒で筆者にはいちいち書けない。
 帝は六条院へ好意をお見せになろうとした賀宴をやむをえず御中止になったかわりに、そのころ病気のため右大将を辞した人のあとへ、中納言をにわかに抜擢《ばってき》しておすえになった。院もお礼の御|挨拶《あいさつ》をあそばされたが、それは、
「突然の御恩命はあまりに過分なお取り扱いで、若い彼が職に堪えますかどうか疑問にいたしております」
 こんな謙遜《けんそん》なお言葉であった。
 帝《みかど》はこの右大将を表面の主催者として院の四十の賀の最後の宴を北東の町の花散里《はなちるさと》夫人の住居《すまい》に設けられた。派手《はで》になることを院は避けようとされたのであったが、宮中の御内命によって行なわれるこの賀宴は、すべて正式どおりに略したところのないすばらしいものになった。幾つかの宴席の料理の仕度《したく》などは内廷からされた。屯食《とんじき》の用意などはお指図《さしず》を受けて頭《とうの》中将が皆したのである。親王お五方《いつかた》、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、参議五人、これだけが参列して、御所の殿上役人、東宮、院の殿上人もほとんど皆集まって参っていた。院のお席の物、その室に備えられた道具類は太政大臣が聖旨を奉じて最高の技術者に製作させた物であった、そしてお言葉を受けてこの大臣もお式の場へ臨んだ。院はこれにもお驚きになって恐縮の意を表されながら式の座へお着きになった。中央の室に南面された院のお席に向き合って太政大臣の座があった。きれいで、りっぱによく肥《ふと》っていて、位人臣をきわめた貫禄《かんろく》の見える男盛りと見えた。院はまだ若い源氏の君とお見えになるのであった。四つの屏風《びょうぶ》には帝の御|筆蹟《ひっせき》が貼《は》られてあった。薄地の支那綾《しなあや》に高雅な下絵のあるものである。四季の彩色絵よりもこのお屏風はりっぱに見えた。帝の御字は輝くばかりおみごとで、目もくらむかと思いなしも添って思われた。置き物の台、弾《ひ》き物、吹き物の楽器は蔵人所《くろうどどころ》から給せられたのである。右大将の勢力も強大になっていたため今日の式のはなやかさはすぐれたものに思われた。四十匹の馬が左馬寮、右馬寮、六衛府《りくえふ》の官人らによって次々に引かれて出た。おそれ多いお贈り物である。そのうち夜になった。例の万歳楽、賀皇恩《がこうおん》などという舞を、形式的にだけ舞わせたあとで、お座敷の音楽のおもしろい場が開かれた。太政大臣という音楽の達者《たてもの》が臨場していることにだれもだれも興奮しているのである。琵琶《びわ》は例によって兵部卿《ひょうぶきょう》の宮、院は琴《きん》、太政大臣は和琴《わごん》であった。久しくお聞きにならぬせいか和琴の調べを絶妙のものとしてお聞きになる院は、御自身も琴を熱心にお弾《ひ》きあそばされたのである。いかなる時にも聞きえなかった妙音も出た。またも昔の話が出て、子息の縁組みその他のことで昔に増した濃い親戚《しんせき》関係を持つことにおなりになった二人は、睦《むつ》まじく酒杯をお重ねになった。おもしろさも頂天に達した気がされて、酔い泣きをされるのもこのかたがたであった。お贈り物には、すぐれた名器の和琴を一つ、それに大臣の好む高麗笛《こまぶえ》を添え、また紫檀《したん》の箱一つには唐本と日本の草書の書かれた本などを入れて、院は帰ろうとする大臣の車へお積ませになった。馬を院方の人が受け取った時に右馬寮の人々は高麗楽を奏した。六衛府の官人たちへの纏頭《てんとう》は大将が出した。質素に質素にとして目だつことはおやめになったのであるが、宮中、東宮、朱雀《すざく》院、后《きさい》の宮、このかたがたとの関係が深くて、自然にはなやかさの作られる六条院は、こんな際に最も光る家と見えた。院には大将だけがお一人息子で、ほかに男子のないことは寂しい気もされることであったが、その一人の子が万人にすぐれた器量を持ち、君主の御覚えがめでたく、幸運の人というにほかならぬことが証《あか》しされていくにつけて、この人の母である夫人と、伊勢《いせ》の御息所《みやすどころ》との双方の自尊心が強くて苦しく競い合った時代に次いで、中宮とこの大将が双方とも、院の大きい愛のもとでりっぱなかたがたになられたことが思わせられる。この日大将から院へ奉った衣服類は花散里夫人が引き受けて作ったのである。纏頭の物は皆三条の若夫人の手でできたようであった。六条院のはなやかな催し事もよそのことに聞いていた花散里夫人には、こうした生きがいのある働きをする日はあることかと思われたものであるが、大将の母儀《ぼぎ》になっていることによって光栄が分かたれたのである。
 新年になった。六条院では淑景舎《しげいしゃ》の方《かた》の産期が近づいたために不断の読経《どきょう》が元日から始められていた。諸社、諸寺でも数知れぬ祈祷《きとう》をさせておいでになるのである。院は昔の葵《あおい》夫人が出産のあとで死んだことで懲りておいでになって、恐ろしいものと子を産むことを感じておいでになり、紫夫人に出産のなかったことは物足らぬお気持ちもしながらまたうれしくお思われにもなるのであったから、まだ少女といってよいほどの身体《からだ》で、その女の大厄《たいやく》を突破せねばならぬ御女《おんむすめ》のことを、早くから御心配になっていたが、二月ごろからは寝ついてしまうほどにも苦しくなったふうであるのを院も女王《にょおう》も不安がられないはずもない。陰陽師《おんようじ》どもは場所を変えて謹慎をせねばならぬと進言するので、院外の離れた家へ移すのは気がかりに思召され、明石《あかし》夫人の北の町の一つの対の屋へ淑景舎の病室は移されることになった。こちらはただ大きい対の屋が二つと、そのほかは廊にして廻《めぐ》らせた座敷ばかりの建物であったから、廊座敷に祈祷の壇が幾つも築かれ、評判のよい祈祷僧は皆集められて祈っていた。明石夫人は桐壺《きりつぼ》の方が平らかに出産されるか否かで自身の運命も決まることと信じていて、一所懸命な看護をしていた。明石入道の尼夫人はもうぼけた老婆になっているはずである。姫君に接近のできることを夢のような幸福と思って、移って間もなくこの人がそばへ出てくるようになった。もう幾年か明石夫人は姫君に付き添っているのであるが、桐壺の方の生まれてきた当時の事情などはまだ正確に話してなかった。それを老尼はうれしさのあまりに病室へ来ては涙まじりに、昔の話を身じまいをしながら姫君へ語るのであった。初めの間は無気味な老婆であると姫君は思って、顔ばかり見つめているのを常としたが、実母にそうした母親があるということは何かの時に聞いたこともあったのを思い出してからは好意を持つようになった。明石で生まれた時のこと、また院がその海岸へ移って来ておいでになったころの様子などを尼君は言う、
「京へお帰りになりました時、一家の者はこれで御縁が切れてしまうのかとひどく悲しんだものでございますがね、お生まれになったお姫様が暗い運命から私たちを救い上げてくだすったのでございますから、ありがたいことと御恩を思っております」
 はらはらと涙をこぼしている。そんな哀れな昔の話をこの尼さんが聞かせてくれなければ、自分はただ疑ってみるだけで、真相は何もわからずにしまったかもしれぬと思って桐壺の方は泣いた。心のうちでは、自分の身の上は決して欠け目ないものとは言えなかったのを、養母の夫人の愛にみがかれて十分な尊敬も受ける院の御女《おんむすめ》ともなりえたのである、思い上がった心で東宮の後宮に侍していても、他の人たちを自分に劣ったもののように見たりしてきたのは過失《あやまり》である、表面に出して言わないでも、世間の人は自分のその態度を譏《そし》ったことであろうと反省もされるようになった。実母は少し劣った家の出であるとは知っていても、生まれたのはそうした遠い田舎《いなか》の家であったなどとは思いも寄らぬことだったのである。おおように育てられ過ぎたせいだったかもしれぬが、自身の今まで知らぬとは不思議なことのように思われるのであった。祖父である入道が現在では人間離れのした仙人《せんにん》のような生活をしているということも若い心には悲しかった。姫君がにわかにいろいろな物思いを胸に持って、寂しい顔をしている時に明石夫人が出て来た。昼の加持にあちらこちらから手つだいの者や僧が来て騒いでいるのを、この人は今まで監督していたのであるが、来てみると姫君のそばには他の者がいずに尼君だけが得意な気分を見せて近くにすわっていた。
「体裁が悪うございますよ。短い几帳《きちょう》で身体《からだ》をお隠しになってお付きしていらっしゃればいいのに、風が吹いていますからお座敷の外から人がのぞけば、あなたはお医者のような恰好《かっこう》でおそばに出ているのですから恥ずかしい。こんなふうにしておいでになってはね」
 などと明石は片腹痛がっていた。品のよいとりなしでこうしているのであると尼君自身は信じているのであるが、もう耳もあまり聞こえなくて、娘の言葉も、
「ああよろしいよ」
 などと言っていいかげんに聞いているのである。六十五、六である。しゃんとした尼姿で上品ではあるが、目を赤く泣きはらしているのを見ては、古い時代、つまり源氏の君の明石の浜を去ったころによくこうであったことが思い出されて夫人ははっとした。
「間違いの多い昔話などを申していたのでしょう。怪しくなりました記憶から取り出します話には荒唐無稽《こうとうむけい》な夢のようなこともあるのでございますよ」
 と、微笑を作りながら夫人のながめる姫君は、艶《えん》にきれいな顔をしていて、しかも平生よりはめいったふうが見えた。自身の子ながらももったいなく思われるこの人の心を、傷つけるような話を自身の母がして煩悶《はんもん》をしているのではないか、お后《きさき》の位にもこの人の上る時を待って過去の真実を知らせようとしていたのであるが、現在はまだ若いこの人でも、昔話から母の自分をうとましく思うことはあるまいが、この人自身の悲観することにはなろうと明石夫人は憐《あわれ》んだ。加持が済んで僧たちの去ったあとで、夫人は近く寄って菓子などを勧め、
「少しでも召し上がれ」
 と心苦しいふうに姫君を扱っていた。尼君はりっぱな美しい桐壺《きりつぼ》の方に視線をやっては感激の涙を流していた。顔全体に笑《え》みを作って、口は見苦しく大きくなっているが、目は流れ出す涙で悲しい相になっていた。困るというように明石は目くばせをするが、気のつかないふうをしている。

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「老いの波かひある浦に立ちいでてしほたるるあまをたれか咎《とが》めん
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 昔の聖代にも老齢者は罪されないことになっていたのでございますよ」
 と尼君は言った。硯箱《すずりばこ》に入れてあった紙に、

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しほたるるあまを波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋《とまや》を
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 こんな歌を姫君は書いた。明石も堪えがたくなって泣いた。

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世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇《やみ》は晴るけしもせじ
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 などと言っ
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