語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋《いか》った。が、直《じき》にまた悲痛な顔になって堪《こら》え涙《なみだ》をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中《うち》に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪《た》えなくなったのである。
格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違《まちが》うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだ暮《く》れたばかりの初夏《しょか》の谷中《やなか》の風は上野つづきだけに涼《すず》しく心よかった。ごく懇意《こんい》でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚《どうりょう》の中村の家を訪《と》い、その細君に立話しをして、中村に吾家《うち》へ遊びに来てもらうことを請《こ》うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何で
前へ
次へ
全30ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング