《しもと》を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途《みち》は遠くして、日は熾《さか》りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水《しずく》も得ぬ其苦しさや抑《そも》如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎《うと》む目づかいのみに得知らぬ意《こころ》を動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙《つたな》くも牛とは生れしぞ、汝今|抑々《そもそも》何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢《はっし》と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無《なむ》、救わせたまえ、諸仏|菩薩《ぼさつ》、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古《たいこ》からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。
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