も検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致《いんち》があって、仙禽《せんきん》おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。
慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓《さち》にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭《こうべ》を回《めぐ》らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様《そう》した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より長《た》けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の漸《ようや》く進むに連れて、愈々《いよいよ》日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求《きぐ》して已《や》まぬのをば、是《これ》真実道、是無上道、是|清浄道《しょうじょうどう》、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き
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