った。しかし保胤は夙《はや》くより人間の紛紜《ふんうん》にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に※[#「匈/月」、922−上−15]《むね》が染《そ》みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓《おし》えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一[#(ト)]わたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑《ねむ》ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想《おもい》を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦《ねんじゅ》したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道《しょうどう》に運んでいるのみであるから、咎《とが》めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言|綺語《きぎょ》即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是《ぜ》としたところであったには疑無い。
この保胤に対しては親王も他の藻絵《そうかい》をのみ事とする詞客《しかく》に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そ
前へ
次へ
全120ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング