なった。文時是非なく、実《まこと》には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言《せいごん》を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼《せま》って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品《かんさんぽん》の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝《らいはい》して過ぐるのを見た、と云われたほど時人《じじん》に尊崇《そんそう》された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に布《し》いた保胤は、試《し》に応じて及第し、官も進んで大内記《だいないき》にまでなった。
具平《ともひら》親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀《き》ノ斉名《まさな》、大江ノ以言《もちとき》などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであ
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