語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に瓦礫《がれき》を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に清水《せいすい》があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業《しょうごう》上人が水観を成《じょう》じた時同じく石を投げ入れられて、これは※[#「匈/月」、927−中−15]《むね》が痛んだという談があって、何も希有《けう》な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に斯様《かよう》な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は何様《どう》でもよい、ただ斯様《こう》いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ覚束《おぼつか》ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様
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