十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に是《かく》の如き深解《じんげ》の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧|※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然《ちょうねん》、入宋《にっそう》渡天の願《がん》を立てて彼地《かのち》へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然は母の為に修善《しゅぜん》の大会《だいえ》を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の期《ご》し難きをおもい、逆修《ぎゃくしゅ》の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然の為に筆を揮《ふる》って其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々《さいさい》数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然上人の唐に赴くを餞《せん》して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が撰《せん》した。今や其寂心は既に亡くなってい
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