みょうが》に叶って今かく貴《とうと》い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古《いにしえ》の鎌子《かまこ》の大臣《おとど》の御名《おんな》を縁《よすが》にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易《やす》い事だというので、近衛竜山公《このえりゅうざんこう》がその取計《とりはから》いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五|摂家《せっけ》に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘《おんまま》にはなるべきでない」と咎《とが》めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢《あえ》てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以《とくぜんいんげんい》に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※[#二の字点、1−2−22]固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓《つる》となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏《うじ》になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭《きくてい》殿が姓氏録を検《あらた》めて、はじめて豊臣秀吉となった。
これも植通は宜《よ》かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥《たしか》に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
秀吉は遂に関白になった。ついで秀次《ひでつぐ》も関白になった。飯綱成就の植通は毎※[#二の字点、1−2−22]言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊《ぼう》の津《つ》へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女《むすめ》の一台《いちだい》殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余《しょよ》としてその道を得ていた。法橋紹巴《ほっきょうしょうは》は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪《と》うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚
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