落《じゅらく》の安芸《あき》の毛利《もうり》殿の亭《ちん》にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花|神代《かみよ》もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人※[#二の字点、1−2−22]褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平《なりひら》の歌は、竜田川《たつたがわ》に水の紅《くれない》にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵《むあん》が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利|大膳《だいぜん》が神主《かんぬし》ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵《かな》わない。光秀は紹巴に「天《あめ》が下しる五月《さつき》哉《かな》」の「し」の字は「な」の字|歟《か》といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
紹巴は時※[#二の字点、1−2−22]この公を訪《と》うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐《おもむ》ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退《ひきさが》った。なるほどこの公の歩くさきには旋風《つじかぜ》が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
源氏物語にも言辞事物《げんじじぶつ》の注のほかに深き観念あるを説いて止観《しかん》の説という。この公の源語の注の孟津抄《もうしんしょう》は、法華経の釈に玄義、文句《もんぐ》とありて扨《さて》、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜《えんぎ》の御代《みよ》に住む心地する」といって、明暮《あけくれ》に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦《う》まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
長頭丸が時※[#二の字点、1−2−22]|教《
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