り、ただわずかに一書を友人に遺《のこ》せるのみ。
 十一日午前七時青森に着き、田中|某《ぼう》を訪《と》う。この行|風雅《ふうが》のためにもあらざれば吟哦《ぎんが》に首をひねる事もなく、追手を避《さ》けて逃《に》ぐるにもあらざれば駛急《しきゅう》と足をひきずるのくるしみもなし。さればまことに弥次郎兵衛《やじろべえ》の一本立の旅行にて、二本の足をうごかし、三本たらぬ智恵《ちえ》の毛を見聞を広くなすことの功徳《くどく》にて補わむとする、ふざけたことなり。
 十二日午前、田中某に一宴《いちえん》を餞《せん》せらるるまま、うごきもえせず飲み耽《ふけ》り、ひるいい終わりてたちいでぬ。安方町《やすかたまち》に善知鳥《うとう》のむかしを忍び、外の浜に南兵衛のおもかげを思う。浅虫というところまで村々|皆《みな》磯辺《いそべ》にて、松風《まつかぜ》の音、岸波の響《ひびき》のみなり。海の中に「ついたて」めきたる巌《いわお》あり、その外しるすべきことなし。小湊《こみなと》にてやどりぬ。このあたりあさのとりいれにて、いそがしぶる乙女《おとめ》のなまじいに紅染《べにぞめ》のゆもじしたるもおかしきに、いとかわゆき
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