む。日も暮るるに近き頃、辛くして頂に至りしが、雲霧|大《おおい》に起りて海の如くになり、鳥居にかかれる大なる額の三峰山という文字も朧気《おぼろげ》ならでは見えわかず、袖《そで》も袂《たもと》も打湿りて絞るばかりになりたり。急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘《いざな》いて楼上《にかい》に導き、幅一間余もある長々しき廊を勾《かぎ》に折れて、何番とかやいう畳十ひらも敷くべき一室《ひとま》に入らしめたり。
あたりのさまを見るに我らが居れる一[#(ト)]棟は、むかし観音院といいし頃より参詣のものを宿らしめんため建てたると覚しく、あたかも廻廊というものを二階建にしたる如く、折りまがりたる一[#(ト)]つづきのいと大なる建物にて、室の数はおおよそ四十もあるべし。一つの堂を中にし、庭を隔てて対《むか》いの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈を陸《くが》より遥に望むが如し。此処は水乏しくして南の方の澗《たに》に下る八町ならでは得る由なしと聞けるに、湯殿に入りて見れば浴槽《ゆぶね》の大さなど賑える市の宿屋も及ばざる程にて、心地好きこと思いのほかなり。
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