れしが、元禄年中三谷助太夫というものの探り試みしより以来《このかた》また行わるるに至りしという。窟のありさまを考うるに、あるいは闊くなりあるいは狭くなり、あるいは上りあるいは下り、極めて深き底知れぬ谷などのあるのみならず、岩のさま角だたず滑らかにして、すべて物の自然《おのずから》溶け去りし後の如くなれば、人の造りしものともおもわれず、七宝所成にして金胎両部の蓮華蔵海なりなどいう法師らが説はさておき、まことにおのずから成れる奇窟なるべく、東の出口と西の入口と相隔たること窟の外にてもおよそ一町ほどなれば、窟の中二町余りというも虚妄《いつわり》にあらじと肯わる。ただ窟の内のさまざまの名は皆強いて名づけたるにて、名に副うものは一もなし。
 窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束《おぼつか》なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍《かたえ》の清水に渇《かわ》きたる喉を潤《うるお》しなどして辛くも本道に出で、小野原を経て贄川に憩《いこ》う。荒川橋とて荒川に架《わた》せる鉄橋あり。岸高く水遠くして瀬をなし淵をなし流るる川のさまも凡《ただ》ならぬに、此方の岩より彼方の岩へかか
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