、此のあたりの地をば吾が家にて有ちし往時《むかし》もありければ、一ト言にても糺されしことの胸わろきにつけて、よし無き感を起しゝも烏滸がまし。
 あづま屋に着きたるに、時は思ひのほかに早くて猶未だ四時には至らず。小糠雨猶止まねど雲脚しきりに断れて西の方の空いよ/\明るく、朝風涼しく吹きて心地よきこと云ふばかり無し。我等の至れるを見て舟子は急がはしく立ち出で、柳橋の上に良久しく佇みて四方《よも》の空のさまを見めぐらす。今日の晴雨を詳《つまびらか》に考ふるなるべしと思へば、天《そら》のさま悪しゝ、舟出し難しなど云はれんには如何せんと、傍観《わきみ》する身の今さら胸轟かる。舟子やがて橋より下り来て、悪しかりし空のさまも悉く変りて今は少しも虞れ無くなりぬ、雨は必ず快く霽るべし、風は必ず好きほどに吹くべし、いざ船に召し玉へと心強く云へば、弟も我も笑みかたぶきて父上とも/″\船に乗る。
 纜縄《もやひ》解く、水※[#「※」は「たけかんむり+高」、第3水準1−89−70、170−16]《みさお》撞き張る、早緒取り掛けて櫓を推し初むれば、船は忽ち神田川より大川に出で、両国の橋間を過ぎ、見る目も濶き波の上
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