れ家洗はれ、婦女も裳裾をかゝげて右往左往するに至つたのである。此度の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原《かはら》の枯芒《かれすゝき》、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすゝき」といふ謡が行はれて、童幼これを唱へ、特《こと》に江東には多く唱はれ、或は其曲を口笛などに吹く者もあつた。其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感を懐かしめた。これは活動写真の挿曲から行はれたので、原意は必ずしも此度の惨事を予言したのでも何でも無いが、大震大火が起つて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となつた人の多いに及んで、唱ふ者はパッタリと無くなつたが、回顧すると厭《いや》な感じがする。菩薩蛮《ぼさつばん》行はれて安禄山《あんろくざん》の乱の起つた昔話や、泣面化粧《なきつらげしやう》が行はれて国の運の傾いた類を、支那史上から取出して談ずるまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ……」の童謡が行はれて、斉明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、好い方では「かつらぎ寺の前なるや豊浦《とよら》の寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白璧《しらたま》しづく……」の童謡が行はれて後、
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