いる。山名|氏清《うじきよ》が泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府から此地を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛《きょうらく》への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達を遂げて愈々《いよいよ》殷賑《いんしん》を加えた。大内は西方智識の所有者であったから歟《か》、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦《わがくに》の城は孑然《げつぜん》として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞《めぐ》らして濠《ほり》を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる形式は、自然と人民をして自ら治むることの有利にして且喫緊なことを悟らしめた。当時の外国貿易に従事する者は、もとより市中の富有者でもあり、智識も手腕も有り、従って勢力も有り、又多少の武力――と云ってはおかしいが、子分子方、下人|僮僕《どうぼく》の手兵ようの者も有って、勢力を実現し得るのであった。それで其等の勢力が愛郷土的な市民に君臨するようになったか
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