い》なり。
 主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なきやんちゃざかりの猪之《いの》まで自然《おのず》と浮き立たず、淋《さび》しき貧家のいとど淋しく、希望《のぞみ》もなければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖か味のない夢に物寂《ものさ》びた夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ、も少し睡《ね》させておこうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何もかも知らいでたわいなく寝ていし平生《いつも》とは違い、どうせしことやらたちまち飛び起き、襦袢《じゅばん》一つで夜具の上|跳《は》ね廻り跳ね廻り、厭じゃい厭じゃい、父様を打《ぶ》っちゃ厭じゃい、と蕨《わらび》のような手を眼にあてて何かは知らず泣き出せば、ええこれ猪之はどうしたものぞ、とびっくりしながら抱き止むるに抱かれながらもなお泣き止まず。誰も父様を打ちはしませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寝て居らるる、と顔を押し向け知らすれば不思議そうに覗き込んで、ようやく安心しはしてもまだ疑惑《うたがい》の晴れぬ様子。
 猪之やなんにもありはしないわ、夢を
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