》の財産《しんだい》よしであるが、不幸《ふしあわせ》に家族《ひと》が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使《めしつかい》も居れば傭《やとい》の男女《おとこおんな》も出入《ではい》りするから朝夕などは賑《にぎや》かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂《しずか》である。特《こと》に今、母はお浪の源三を連れて帰って来たのを見て、わたしはちょいと見廻《みまわ》って来るからと云って、少し離《はな》れたところに建ててある養蚕所《ようさんじょ》を監視《みまわり》に出て行ったので、この広い家に年のいかないもの二人|限《きり》であるが、そこは巡査《おまわり》さんも月に何度かしか回って来ないほどの山間《やまあい》の片田舎《かたいなか》だけに長閑《のんき》なもので、二人は何の気も無く遊んでいるのである。が、上れとも云わなければ茶一つ出そうともしない代り、自分も付合って家へ上りもしないでいるのは、一つはお浪の心安立《こころやすだて》からでもあろうが、やはりまだ大人《おとな》びぬ田舎娘の素樸《きじ》なところからであろう。
 源三の方は道を歩いて来たためにちと脚《あし》が草臥《くたびれ》ているからか、腰《こし》を掛《か》けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載《の》せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐《ね》ている大《おおき》な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽《かろ》く蹴《け》るように触《さわ》って見たりしている。日の光はちょうど二人の胸あたりから下の方に当っているが、日ざしに近くいるせいだか二人とも顔が薄《うっす》りと紅くなって、特《こと》に源三は美しく見える。
「よっぽどって、そうさ五日《いつか》六日《むいか》来なかったばかりだ。」
と源三はお浪の言葉に穏《おだ》やかに答えた。
「そんなものだったかネ、何だか大変長い間見えなかったように思ったよ。そして今日《きょう》はまた定《きま》りのお酒買いかネ。」
「ああそうさ、厭《いや》になっちまうよ。五六日は身体《からだ》が悪いって癇癪《かんしゃく》ばかり起してネ、おいらを打《ぶ》ったり擲《たた》いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済《す》んだが、もう癒《なお》ったからまた今日《きょう》っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣《よこ》されて、そして気むずかしい日にあ、こんなに量りが悪いはずはねえ、大方《おおかた》途中《とちゅう》で飲んだろう、道理で顔が赤いようだなんて無理を云って打撲《ぶんなぐ》るんだもの、ほんとに口措《くやし》くってなりやしない。」
「ほんとに嫌《いや》な人だっちゃない。あら、お前の頸《くび》のところに細長い痣《あざ》がついているよ。いつ打《ぶ》たれたのだい、痛そうだねえ。」
と云いながら傍《そば》へ寄って、源三の衣領《えり》を寛《くつろ》げて奇麗《きれい》な指で触ってみると、源三はくすぐったいと云ったように頸を縮《すく》めて障《さえぎ》りながら、
「お止《よし》よ。今じゃあ痛くもなんともないが、打たれた時にあ痛かったよ。だって布袋竹《ほていちく》の釣竿《つりざお》のよく撓《しな》う奴《やつ》でもってピューッと一ツやられたのだもの。一昨々日《さきおととい》のことだったがね、生《なま》の魚が食べたいから釣って来いと命令《いいつ》けられたのだよ。風が吹《ふ》いて騒《ざわ》ついた厭な日だったもの、釣れないだろうとは思ったがね、愚図愚図《ぐずぐず》していると叱《しか》られるから、ハイと云って釣には出たけれども、どうしたって日が悪いのだもの、釣れやしないのさ。夕方まで骨を折って、足の裏が痛くなるほど川ん中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたけれども、とうとう一尾《いっぴき》も釣れずに家へ帰ると、サア怒《おこ》られた怒られた、こん畜生《ちくしょう》こん畜生と百ばかりも怒鳴《どな》られて、香魚《あゆ》や山※[#「魚へん+完」、第4水準2−93−48、58−7]《やまめ》は釣れないにしても雑魚《ざこ》位釣れない奴があるものか、大方遊んでばかりいやがったのだろう、この食《く》い潰《つぶ》し野郎《やろう》めッてえんでもって、釣竿を引奪《ひったく》られて、逃《に》げるところを斜《はす》に打《ぶ》たれたんだ。切られたかと思ったほど痛かったが、それでも夢中《むちゅう》になって逃げ出すとネ、ちょうど叔父《おじ》さんが帰って来たので、それで済《す》んでしまったよ。そうすると後で叔父さんに対《むか》って、源三はほんとに可愛《かわい》い児ですよ、わたしが血の道で口が不味《まず》くってお飯《まんま》が食べられないって云いましたらネ、何か魚でも釣って来てお菜《さい》にしてあ
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