雁坂越
幸田露伴
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲州《こうしゅう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)甲州|裏街道《うらかいどう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62、52−2]
−−
その一
ここは甲州《こうしゅう》の笛吹川《ふえふきがわ》の上流、東山梨《ひがしやまなし》の釜和原《かまわばら》という村で、戸数《こすう》もいくらも無い淋《さみ》しいところである。背後《うしろ》は一帯《いったい》の山つづきで、ちょうどその峰通《みねどお》りは西山梨との郡堺《こおりざかい》になっているほどであるから、もちろん樵夫《きこり》や猟師《りょうし》でさえ踏《ふ》み越《こ》さぬ位の仕方の無い勾配《こうばい》の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地《ひくち》を越してのその対岸《むこう》もまた山々の連続《つながり》である。そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違《そうい》ないが、恐《おそ》ろしい高い山々が、余り高くって天に閊《つか》えそうだからわざと首を縮《すく》めているというような恰好《かっこう》をして、がん張《ば》っている状態《ありさま》は、あっちの邦土《くに》は誰《だれ》にも見せないと、意地悪く通《とお》せん坊《ぼう》をしているようにも見える位だ。その恐ろしい山々の一《ひ》ト列《つらな》りのむこうは武蔵《むさし》の国で、こっちの甲斐《かい》の国とは、まるで往来《ゆきかい》さえ絶えているほどである。昔時《むかし》はそれでも雁坂越と云《い》って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪《あや》しい地図に道路《みち》があるように書いてあるのもある。しかしこの釜和原から川上へ上《のぼ》って行くと下釜口《しもかまぐち》、釜川《かまがわ》、上釜口《かみかまぐち》というところがあるが、それで行止りになってしまうのだから、それから先はもうどこへも行きようは無いので、川を渡《わた》って東岸《ひがしぎし》に出たところが、やはり川下へ下《さが》るか、川浦《かわうら》という村から無理に東の方へ一ト山越して甲州|裏街道《うらかいどう》へと出るかの外には路《みち》も無いのだから、今では実際雁坂越の道は無いと云った方がよいのである。こういうように三方は山で塞《ふさ》がっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合《やまあい》が闊《ひろ》くなって、川が太《ふと》って、村々が賑《にぎ》やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会《みやこ》の甲府《こうふ》に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の人が甲府甲府と思っているのも無理は無いのであ驕B
釜和原はこういったところであるから、言うまでも無く物寂《ものさ》びた地だが、それでも近い村々に比べればまだしもよい方で、前に挙《あ》げた川上の二三ヶ村はいうに及《およ》ばず、此村《これ》から川下に当る数ヶ村も皆この村には勝らないので、此村《ここ》にはいささかながら物を売る肆《みせ》も一二|軒《けん》あれば、物持だと云われている家《うち》も二三|戸《こ》はあるのである。
今この村の入口へ川上の方から来かかった十三ばかりの男の児《こ》がある。山間僻地《さんかんへきち》のここらにしてもちと酷過《ひどす》ぎる鍵裂《かぎざき》だらけの古布子《ふるぬのこ》の、しかもお坊《ぼう》さんご成人と云いたいように裾短《すそみじか》で裄短《ゆきみじか》で汚《よご》れ腐《くさ》ったのを素肌《すはだ》に着て、何だか正体の知れぬ丸木《まるき》の、杖《つえ》には長く天秤棒《てんびんぼう》には短いのへ、五合樽《ごんごうだる》の空虚《から》と見えるのを、樹《き》の皮を縄《なわ》代《がわ》りにして縛《くく》しつけて、それを担《かつ》いで、夏の炎天《えんてん》ではないからよいようなものの跣足《すあし》に被《かぶ》り髪《がみ》――まるで赤く無い金太郎《きんたろう》といったような風体《ふうてい》で、急足《いそぎあし》で遣《や》って来た。
すると路《みち》の傍《そば》ではあるが、川の方へ「なだれ」になっているところ一体に桑《くわ》が仕付《しつ》けてあるその遥《はるか》に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙《ひな》でも媚《なまめ》き立つ年頃《としごろ》だけに紅《あか》いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装《つくり》をして、小籃《こかご》を片手に、節こそ鄙《ひな》びてはおれど清らかな高い徹《とお》る声で、桑の嫩葉《わかば》を
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング