摘《つ》みながら歌を唄《うた》っていて、今しも一人《ひとり》が、

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わたしぁ桑摘む主《ぬし》ぁ※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62、52−2]《きざ》まんせ、春蚕《はるご》上簇《あが》れば二人《ふたり》着る。
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と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、

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桑を摘め摘め、爪紅《つまべに》さした 花洛《みやこ》女郎衆《じょろしゅ》も、桑を摘め。
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と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄《す》んだ声で、断《た》えず鳴る笛吹川の川瀬《かわせ》の音をもしばしは人の耳から逐《お》い払ってしまったほどであった。
 これを聞くとかの急ぎ歩《あし》で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅《おそ》くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興《うちきょう》じて笑い声を洩《も》らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉《は》越《ごし》に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静《しずか》であったが、また前の二人《ふたり》とは違《ちが》った声で、

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桑は摘みたし梢《こずえ》は高し、
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と唄い出したが、この声は前のように無邪気《むじゃき》に美しいのでは無かった。そうするとこれを聞いたこなたの汚《きたな》い衣服《なり》の少年は、その眼鼻立《めはなだち》の悪く無い割には無愛想《ぶあいそう》で薄淋《うすさみ》しい顔に、いささか冷笑《あざわら》うような笑《わらい》を現わした。唱《うた》の主《ぬし》はこんな事を知ろうようは無いから、すぐと続いて、

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誰に負われて摘んで取ろ。
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と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬《やじうま》と出掛《でか》けたので、歌の主は吃驚《びっくり》してこちらを透《す》かして視《み》たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、
「源三《げんぞう》さんだよ、憎《にく》らしい。」
と誰に云ったのだか分らない語《ことば》を出しながら、いかにも蓮葉《はすは》に圃《はたけ》から出離れて、そして振り返って手招《てまね》ぎをして、
「源三さんだって云えば、お浪《なみ》さん。早く出てお出《い》でなネ。ホホわたし達が居るものだから羞《はずか》しがって、はにかんでいるの。ホホホ、なおおかしいよこの人は。」
と揶揄《からか》ったのは十八九のどこと無く嫌味《いやみ》な女であった。
 源三は一向|頓着《とんじゃく》無く、
「何云ってるんだ、世話焼め。」
と口の中《うち》で云い棄《す》てて、またさっさと行き過ぎようとする。圃の中からは一番最初の歌の声が、
「何だネお近《ちか》さん、源三さんに託《かこつ》けて遊んでサ。わたしやお前はお浪さんの世話を焼かずと用さえすればいいのだあネ。サアこっちへ来てもっとお採《と》りよ。」
と少し叱《しか》り気味《ぎみ》で云うと、
「ハイ、ハイ、ご道理《もっとも》さまで。」
と戯《たわむ》れながらお近はまた桑を採りに圃へ入る。それと引違えて徐《しずか》に現れたのは、紫《むらさき》の糸のたくさんあるごく粗《あら》い縞《しま》の銘仙《めいせん》の着物に紅気《べにっけ》のかなりある唐縮緬《とうちりめん》の帯を締《し》めた、源三と同年《おないどし》か一つも上であろうかという可愛《かわい》らしい小娘である。
 源三はすたすたと歩いていたが、ちょうどこの時虫が知らせでもしたようにふと振返《ふりかえ》って見た。途端《とたん》に罪の無い笑は二人の面に溢《あふ》れて、そして娘の歩《あし》は少し疾《はや》くなり、源三の歩《あし》は大《おおい》に遅《おそ》くなった。で、やがて娘は路《みち》――路といっても人の足の踏《ふ》む分だけを残して両方からは小草《おぐさ》が埋《うず》めている糸筋《いとすじ》ほどの路へ出て、その狭《せま》い路を源三と一緒《いっしょ》に仲好く肩を駢《なら》べて去った。その時やや隔《へだ》たった圃の中からまた起った歌の声は、

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わたしぁ桑摘む主ぁ※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62、55−3]まんせ、春蚕上簇れば二人着る。
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という文句を追いかけるように二人の耳へ送った。それは疑いも無くお近の声で、わざと二人に聞かせるつもりで唱ったらしかった。

   その二

「よっぽど此村《こっち》へは来なかったネ。」
と、浅く日の射《さ》している高い椽側《えんがわ》に身を靠《もた》せて話しているのはお浪で、此家《ここ》はお浪の家《うち》なのである。お浪の家は村で指折《ゆびおり
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