げましょうって今まで掛《かか》って釣をしていましたよ、運が悪くって一尾《いっぴき》も釣れなかったけれども、とさもさも自分がおいらによく思われていでもするように云うのだもの、憎くって憎くってなりあしなかった。それもいいけれど、何ぞというと食い潰しって云われるなあ腹が立つよ。過日《こないだ》長六爺《ちょうろくじじい》に聞いたら、おいらの山を何町歩《なんちょうぶ》とか叔父さんが預《あず》かって持っているはずだっていうんだもの、それじゃあおいらは食潰しの事は有りあしないじゃあないか。家の用だって随分《ずいぶん》たんとしているのに、口穢《くちぎたな》く云われるのが真実《ほんと》に厭だよ。おまえの母《おっか》さんはおいらが甲府へ逃げてしまって奉公sほうこう》しようというのを止めてくれたけれども、真実《ほんと》に余所《よそ》へ出て奉公した方がいくらいいか知れやしない。ああ家に居たくない、居たくない。」
と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明《ふとうめい》な白みを持っている柔和《やわらか》な青い色の天《そら》を、じーっと眺《なが》め詰《つ》めた。お浪もこの夙《はや》く父母《ちちはは》を失った不幸の児が酷《むご》い叔母《おば》に窘《くるし》められる談《はなし》を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙《なみだ》ぐんで茫然《ぼうぜん》として、何も無い地《つち》の上に眼を注いで身動もしないでいた。陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅《すみ》の柘榴《ざくろ》の樹《き》の周《まわ》りに大きな熊蜂《くまばち》がぶーんと羽音《はおと》をさせているのが耳に立った。

   その三

 色々な考えに小《ちいさ》な心を今さら新《あらた》に紛《もつ》れさせながら、眼ばかりは見るものの当《あて》も無い天《そら》をじっと見ていた源三は、ふっと何《なん》の禽《とり》だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対《むか》ってでは無い語気で、
「禽は好《い》いなア。」
と呻《うめ》き出した。
「エッ。」
と言いながら眼を挙《あ》げて源三が眼の行く方《かた》を見て、同じく禽の飛ぶのを見たお浪は、たちまちにその意《こころ》を悟《さと》って、耐《た》えられなくなったか※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62、60−10]然《げんぜん》として涙を堕《おと》した。そして源三が肩先《かたさき》を把《とら》えて、
「またおまえは甲府へ行ってしまおうと思っているね。」
とさも恨《うら》めしそうに、しかも少しそうはさせませぬという圧制《あっせい》の意の籠《こも》ったような語《ことば》の調子で言った。
 源三はいささかたじろいだ気味で、
「なあに、無暗《むやみ》に駈《か》け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様《おっかさん》の談《はなし》でよく解《わか》っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余《あんま》り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜《くやし》いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛《つら》い思いをしても辛棒《しんぼう》をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆《みんな》が云うけれど、おいらだって男の児だもの、窘《いじ》められてばかりいたかあ無いや。」
と他《ひと》の意《こころ》に逆《さか》らわぬような優しい語気ではあるが、微塵《みじん》も偽《いつわ》り気《げ》は無い調子で、しみじみと心の中《うち》を語った。
 そこで互《たがい》に親み合ってはいても互に意《こころ》の方向《むき》の異《ちが》っている二人の間に、たちまち一条の問答が始まった。
「どこへでも出て辛棒をするって、それじゃあやっぱり甲府へ出ようって云うんじゃあないか。」
とお浪は云い切って、しばし黙《だま》って源三の顔を見ていたが、源三が何とも答えないのを見て、
「そーれご覧《らん》、やっぱりそうしようと思っておいでのだろう。それあおまえも、品質《もの》が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々《たびたび》に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣《よこ》すような酷《ひど》い叔母様《おばさん》に使われて、そうして釣竿で打《ぶ》たれるなんて目に逢うのだから、辛《つら》いことも辛いだろうし口惜《くや》しいことも口惜しいだろうが、先日《せん》のように逃げ出そうと思ったりなんぞはしちゃあ厭だよ。ほんとに先日《いつか》の夜《ばん》だって吃驚《びっくり》したよ。いくら叔母さんが苛《ひど》いったって雪の降ってる中を無暗に逃げ出して来て、わたしの家《とこ》へも知らさないで、甲府へ出てしまって奉公しようと思うとって、夜にもなっているのにそっと此村《ここ》を通り抜けてしまお
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