うとしたじゃあないか。吾家《うち》の母《おっか》さんが与惣次《よそうじ》さんところへ招《よ》ばれて行った帰路《かえり》のところへちょうどおまえが衝突《ぶつか》ったので、すぐに見つけられて止められたのだが、後で母様《おっかさん》のお話にあ、いくら下りだって甲府までは十里近くもある路を、夜にかかって食物の準備《ようい》も無いのに、足ごしらえも無しで雪の中を行こうとは怜悧《りこう》のようでも真実《ほんと》に児童《こども》だ、わたしが行き合って止めでもしなかったらどんな事になったか知れやしない、思い出しても怖《おそろ》しい事だと仰《おっし》ゃったよ。そればかりじゃあ無い、奉公をしようと云ったって請人《うけにん》というものが無けりゃあ堅《かた》い良い家《うち》じゃあ置いてくれやしないし、他人ばかりの中へ出りゃあ、この児はこういう訳のものだから愍然《かわいそう》だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷《よそ》へ出て苦労をするにしても、それそれの道順を踏《ふ》まなければ、ただあっちこっちでこづき廻《まわ》されて無駄《むだ》に苦しい思《おもい》をするばかり、そのうちにあ碌《ろく》で無い智慧《ちえ》の方が付きがちのものだから、まあまあ無暗に広い世間へ出たって好いことは無い、源さんも辛いだろうがもう少し辛棒していてくれれば、そのうちにあどうかしてあげるつもりだと吾家《うち》の母《おっか》さんがお話しだった事は、あの時の後にもわたしが話したからおまえだって知りきっているはずじゃあ無いかエ。それだのにまだおまえは隙《すき》さえありゃ?無鉄砲《むてっぽう》なことをしようとお思いのかエ。」
と年齢《とし》は同じほどでも女だけにませたことを云ったが、その言葉の端々《はしはし》にもこの女《こ》の怜悧《りこう》で、そしてこの児を育てている母の、分別の賢《かしこ》い女であるということも現れた。
 源三は首を垂《た》れて聞いていたが、
「あの時は夢中になってしまったのだもの、そしてあの時おまえの母様《おっかさん》にいろんな事を云って聞かされたから、それからは無暗の事なんかしようとは思ってやしないのだヨ。だけれどもネ、」
と云いさして云い澱《よど》んでしまった。
「だけれどもどうしたんだエ。ああやっぱり吾家《うち》の母様《おっかさん》の云うことなんか聴《き》かないつもりなのだネ。」
「なあに、なあにそうじゃないけれども、……」
「それ、お見、そうじゃあないけれどもってお云いでも、後の語《ことば》は出ないじゃあないか。」
「…………」
「ほら、ほら、閊《つか》えてしまって云えないじゃあないか。おまえはわたし達にあ秘《かく》していても腹《おなか》ん中じゃあ、いつか一度は、誰の世話にもならないで一人で立派なものになろうと思っているのだネ。イイエ頭を掉《ふ》ってもそうなんだよ。」
「ほんとにそうじゃないって云うのに。」
「イイエ、何と云ってもいけないよ。わたしはチャーンと知っているよ。それじゃあおまえあんまりというものだよ、何もわたし達あおまえの叔母《おば》さんに告口《いつけぐち》でもしやしまいし、そんなに秘《かく》し立《だて》をしなくってもいいじゃあないか。先《せん》の内はこんなおまえじゃあなかったけれどだんだんに酷い人におなりだネエ、黙々《だんまり》で自分の思い通りを押通《おしとお》そうとお思いのだもの、ほんとにおまえは人が悪い、怖《こわ》いような人におなりだよ。でもおあいにくさまだが吾家《うち》の母様《おっかさん》はおまえの心持を見通していらしって、いろいろな人にそう云っておおきになってあるから、いくらお前が甲府の方へ出ようと思ったりなんぞしてもそうはいきません。おまえの居る方から甲府の方へは笛吹川の両岸のほかには路は無い、その路にはおまえに無暗なことをさせないようにと思って見ている人が一人や二人じゃあ無いから、おまえの思うようにあなりあしないヨ。これほどに吾家《うち》の母様《おっかさん》の為《な》さるのも、おまえのためにいいようにと思っていらっしゃるからだとお話があったわ。それだのに禽《とり》を見て独語《ひとりごと》を云ったりなんぞして、あんまりだよ。」
と捲《まく》し立ててなおお浪の言わんとするを抑《おさ》えつけて、
「いいよ、そんなに云わなくったって分っているよ。おいらあ無暗に逃げ出したりなんぞしようと思ってやしないというのに。」
と遮《さえぎ》る。
「おや、まだ強情《ごうじょう》に虚言《うそ》をお吐《つ》きだよ。それほど分っているならなぜ禽はいいなあと云ったり、だけれどもネと云って後の言葉を云えなかったりするのだエ。」
と追窮《ついきゅう》する。追窮されても窘《くるし》まぬ源三は、
「そりゃあただおいらあ、自由自在になっていたら嬉《うれ》しいだろうと
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