思ったからそう云ったのさ。浪ちゃんだってあの禽のように自由だったら嬉しいだろうじゃあないか。」
と云うと、お浪はまた新に涙ぐんで其言《それ》には答えず、
「それ、その通りだもの。おまえにやまだ吾家《うち》の母《おっか》さんだのわたしだのが、どんなにおまえのためを思っているかが解らないのかネエ。真実《ほんと》におまえは自分|勝手《がって》ばかり考えていて、他《ひと》の親切というものは無にしても関《かま》わないというのだネ。おおかたわたし達も誰も居なかったら自由自在だっておまえはお悦《よろこ》びだろうが、あんまりそりゃあ気随《きずい》過《す》ぎるよ。吾家《うち》の母様《おっかさん》もおまえのことには大層心配をしていらしって、も少しするとおまえのところの叔父さんにちゃんと談をなすって、何でもおまえのために悪くないようにしてあげようって云っていらっしゃるのだから、辛いだろうがそんな心持を出さないで、少しの間辛抱おしでなくちゃあ済まないわ。」
としみじみと云うその真情《まごころ》に誘《さそ》い込まれて、源三もホロリとはなりながらなお、
「だって、おいらあ男の児だもの、やっぱり一人で出世したいや。」
と自分の思わくとお浪の思わくとの異《ちが》っているのを悲む色を面《おもて》に現しつつ、正直にしかも剛情《ごうじょう》に云った。その面貌《かおつき》はまるで小児《こども》らしいところの無い、大人《おとな》びきった寂《さ》びきったものであった。
 お浪はこの自己《おのれ》を恃《たの》む心のみ強い言《ことば》を聞いて、驚《おどろ》いて目を瞠《みは》って、
「一人でって、どう一人でもって?」
と問い返したが返辞が無かったので、すぐとまた、
「じゃあ誰の世話にもならないでというんだネ。」
と質《ただ》すと、源三は術《じゅつ》無《なさ》そうに、かつは憐愍《あわれみ》と宥恕《ゆるし》とを乞《こ》うような面《かお》をして微《かすか》に点頭《うなずい》た。源三の腹の中は秘《かく》しきれなくなって、ここに至ってその継子根性《ままここんじょう》の本相《ほんしょう》を現してしまった。しかし腹の底にはこういう僻《ひが》みを持っていても、人の好意に負《そむ》くことは甚《ひど》く心苦しく思っているのだ。これはこの源三が優しい性質《うまれつき》の一角と云おうか、いやこれがこの源三の本来の美しい性質で、いかなる人をも頼《たの》むまいというようなのはかえって源三が性質の中のある一角が、境遇《きょうぐう》のために激《げき》せられて他の部よりも比較的《ひかくてき》に発展したものであろうか。
 お浪は今明らかに源三の本心を読んで取ったので、これほどに思っている自分親子をも胸の奥《おく》の奥では袖《そで》にしている源三のその心強さが怨《うら》めしくもあり、また自分が源三に隔《へだ》てがましく思われているのが悲しくもありするところから、悲痛の色を眉目《びもく》の間《かん》に浮《うか》めて、
「じゃあ吾家《うち》の母様《おっかさん》の世話にもなるまいというつもりかエ。まあ怖しい心持におなりだネエ、そんなに強《きつ》くならないでもよさそうなものを。そんなおまえじゃあ甲府の方へは出すまいとわたし達がしていても、雁坂を越えて東京へも行きかねはしない、吃驚《びっくり》するほどの意地っ張りにおなりだから。」
と云った。すると源三はこれを聞いて愕然《ぎょっ》として、秘せぬ不安の色をおのずから見せた。というものは、お浪が云った語《ことば》は偶然《ぐうぜん》であったのだが、源三は甲府へ逃げ出そうとして意《こころ》を遂《と》げなかった後、恐ろしい雁坂を越えて東京の方へ出ようと試みたことが、既《すで》に一度で無く二度までもあったからで、それをお浪が知っていようはずは無いが、雁坂を越えて云々《しかじか》と云い中《あて》られたので、突然《いきなり》に鋭《するど》い矢を胸の真正中《まっただなか》に射込《いこ》まれたような気がして驚いたのである。
 源三がお浪にもお浪の母にも知らせない位であるから無論誰にも知らせないで、自分一人で懐《いだ》いている秘密《ひみつ》はこうである。一体源三は父母を失ってから、叔母が片付いている縁《えん》によって今の家に厄介《やっかい》になったので、もちろん厄介と云っても幾許《いくばく》かの財産をも預けて寄食していたのだからまるで厄介になったという訳では無いので、そこで叔母にも可愛がらるればしたがって叔父にも可愛がられていたところ、不幸にしてその叔母が病気で死んでしもうて、やがて叔父がどこからか連れて来たのが今の叔母で、叔父は相変らず源三を愛しているに関《かかわ》らず、この叔父の後妻はどういうものか源三を窘《いじ》めること非常なので、源三はついに甲府へ逃《に》げて奉公しようと、山奥の児童《こ
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