ども》にも似合わない賢《かしこ》いことを考え出して、既にかつて堪《た》えられぬ虐遇《ぎゃくぐう》を被《こうむ》った時、夢中になって走り出したのである。ところが源三と小学からの仲好《なかよし》朋友《ともだち》であったお浪の母は、源三の亡くなった叔母と姉妹《きょうだい》同様の交情《なか》であったので、我《わ》が親かったものの甥《おい》でしかも我が娘の仲好しである源三が、始終|履歴《りれき》の汚《よご》れ臭《くさ》い女に酷《ひど》い目に合わされているのを見て同情《おもいやり》に堪《た》えずにいた上、ちょうど無暗滅法《むやみめっぽう》に浮世《うきよ》の渦《うず》の中へ飛込もうという源三に出会ったので、取りあえずその逸《はや》り気《ぎ》な挙動《ふるまい》を止《とど》めておいて、さて大《おおい》に踏ん込《ご》んでもこの可憫《あわれ》な児を危い道を履《ふ》ませずに人にしてやりたいと思い、その娘のお浪はまたただ何と無く源三を好くのと、かつはその可哀《あわれ》な境遇を気《き》の毒《どく》と思うのとのために、これもまたいろいろに親切にしてやる。これらの事情の湊合《そうごう》のために、源三は自分の唯一《ゆいいつ》の良案と信じている「甲府へ出て奉公住みする」という事をあえてしにくいので、自分が一刻も早く面白くない家を出てしまって世間へ飛び出したいという意《こころ》からは、お浪親子の親切を嬉しいとは思いながら難有迷惑《ありがためいわく》に思う気味もあるほどである。もちろんお浪親子がいかに一本路を見張っているにしても、その眼《め》を潜《くぐ》って甲府へ出ることはそれほどcIいことでは無いが、元は優しいので弱虫弱虫と他《ほか》の児童等《こどもたち》に云われたほどの源三には、その親切なお浪親子の家の傍を通ってその二人を出《だ》し抜《ぬ》くことが出来ないのであった。しかし家に居たく無い、出世がしたい、奉公に出たらよかろうと思わずにはいられない自分の身の上の事情は継続《けいぞく》しているので、小耳に挟《はさ》んだ人の談話《はなし》からついに雁坂を越えて東京へ出ようという心が着いた。
東京は甲府よりは無論|佳《よ》いところである。雁坂を越して峠《とうげ》向うの水に随《つ》いてどこまでも下れば、その川は東京の中を流れている墨田川《すみだがわ》という川になる川だから自然と東京へ行ってしまうということを聞きかじっていたので、何でも彼嶺《あれ》さえ越せばと思って、前の月のある朝|酷《ひど》く折檻《せっかん》されたあげくに、ただ一人思い切って上りかけたのであった。けれどもそこは小児《こども》の思慮《かんがえ》も足らなければ意地も弱いので、食物を用意しなかったため絶頂までの半分も行かぬ中《うち》に腹は減《へ》って来る気は萎《な》えて来る、路はもとより人跡《じんせき》絶えているところを大概《おおよそ》の「勘《かん》」で歩くのであるから、忍耐《がまん》に忍耐《がまん》しきれなくなって怖《こわ》くもなって来れば悲しくもなって来る、とうとう眼を凹《くぼ》ませて死にそうになって家へ帰って、物置の隅《すみ》で人知れず三時間も寐《ね》てその疲労《つかれ》を癒《いや》したのであった。そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあの山は越えられぬと肚《はら》の中で悲しみかえっていたが、一度その意《こころ》を起したので日数《ひかず》の立つ中《うち》にはだんだんと人の談話《はなし》や何かが耳に止まるため、次第次第に雁坂を越えるについての知識を拾い得た。そうするとまたそろそろと勇気《いきおい》が出て来て、家を出てから一里足らずは笛吹川の川添《かわぞい》を上って、それから右手の嶺通《みねどお》りの腰をだんだんと「なぞえ」に上りきれば、そこが甲州|武州《ぶしゅう》の境で、それから東北《ひがしきた》へと走っている嶺を伝わって下って行けば、ついには一つの流《ながれ》に会う、その流に沿《そ》うて行けば大滝村《おおたきむら》、それまでは六里余り無人の地だが、それからは盲目《めくら》でも行かれる楽な道だそうだ、何でも峠《とうげ》さえ越してしまえば、と朝晩雁坂の山を望んでは、そのむこうに極楽でもあるように好ましげに見ていた。
すると叔父は山|※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1−84−76、72−5]《かせ》ぎをするものの常で二三日帰らなかったある夜の事であった。叔母の肩《かた》をば揉《も》んでいる中《うち》、夜も大分《だいぶ》に更《ふ》けて来たので、源三がつい浮《うか》りとして居睡《いねむ》ると、さあ恐ろしい煙管《きせる》の打擲《ちょうちゃく》を受けさせられた。そこでまた思い切ってその翌朝《よくあさ》、今度は団飯《むすび》もたくさんに用意する、銭《かね》も少しばかりずつ何ぞの折々に叔父に貰《も
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