ら》ったのを溜《た》めておいたのをひそかに取り出す、足ごしらえも厳重にする、すっかり仕度《したく》をしてしまって釜川を背後《うしろ》に、ずんずんずんずんと川上に上った。やがて小《こ》一里も来たところで、さあここらから川の流れに分れて、もう今まで昼となく夜となく眼にしたり耳にしたりしていた笛吹川もこれが見納めとしなければならぬという場所にかかった。そこで歳《とし》こそ往《ゆ》かないが源三もなんとなく心淋しいような感じがするので、川の側《そば》の岩の上にしばし休んで、※[#「革+堂」、第3水準1−93−80、72−14]鞳《どうとう》と流れる水のありさまを見ながら、名づけようを知らぬ一種の想念《おもい》に心を満たしていた。そうするといずくからともなく人声が聞えるようなので、もとより人も通わぬこんなところで人声を聞こうとも思いがけなかった源三は、一度《ひとたび》は愕然《ぎょっ》として驚いたが耳を澄まして聞いていると、上の方からだんだんと近づいて来るその話声は、復《ふたた》び思いがけ無くもたしかに叔父の声音《こわね》だった。そこで源三は川から二三|間《けん》離《はな》れた大きな岩のわずかに裂《さ》け開《ひら》けているその間に身を隠《かく》して、見咎《みとが》められまいと潜《ひそ》んでいると、ちょうど前に我が休んだあたりのところへ腰を下して憩《やす》んだらしくて、そして話をしているのは全《まった》く叔父で、それに応答《うけこた》えをしているのは平生《ふだん》叔父の手下になっては※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1−84−76、73−8]ぐ甲助《こうすけ》という村の者だった。川音と話声と混《まじ》るので甚《ひど》く聞き辛《づら》くはあるが、話の中《うち》に自分の名が聞えたので、おのずと聞き逸《はず》すまいと思って耳を立てて聞くと、「なあ甲助、どうせ養子をするほども無い財産《しんだい》だから、嚊《かかあ》が勧める嚊の甥なんぞの気心も知れねえ奴《やつ》を入れるよりは、怜悧《りこう》で天賦《たち》の良《い》いあの源三におらが有《も》ったものは不残《みんな》遣《や》るつもりだ。そうしたらあいつの事だから、まさかおらが亡くなったっておらの墓《はか》を草ん中に転《ころ》げさせてしまいもすめえと思うのさ。前の嚊にこそ血筋《ちすじ》は引け、おらには縁の何も無いが、おらあ源三が可愛くって、家へ帰るとあいつめが叔父さん叔父さんと云いやがって、草鞋《わらじ》を解《と》いてくれたり足の泥《どろ》を洗ってくれたり何やかやと世話を焼いてくれるのが嬉しくてならない。子という者あ持ったことも無いが、まあ子も同様に思っているのさ。そこでおらあ、今はもう※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1−84−76、74−3]がないでも食って行かれるだけのことは有るが、まだ仕合《しあわせ》に足腰も達者だから、五十と声がかかっちゃあ身体《からだ》は太義《たいぎ》だが、こうして※[#「峠」の「山へん」が「てへん」、第3水準1−84−76、74−4]いで山林方《やまかた》を働いている、これも皆《みんな》少《すこし》でも延ばしておいて、源三めに与《や》って喜ばせようと思うからさ。どれどれ今日《きょう》は三四日ぶりで家へ帰って、叔父さん叔父さんてあいつめが莞爾《にこつく》顔を見よう、さあ、もう一服やったら出掛けようぜ」と高話《たかばなし》して、やがて去った。これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立《ほどた》って力無げに悄然《しょんぼり》と岩の間から出て、流の下《しも》の方をじっと視《み》ていたが、堰《せ》きあえぬ涙《なみだ》を払《はら》った手の甲を偶然《ふっと》見ると、ここには昨夜《ゆうべ》の煙管の痕《あと》が隠々《いんいん》と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹《きっ》と頭《かしら》を擡《あ》げた源三は、白い横長い雲がかかっている雁坂の山を睨《にら》んで、つかつかと山手の方へ上りかけた。しかしたちまちにして一ト歩《あし》は一ト歩より遅《おそ》くなって、やがて立止まったかと見えるばかりに緩《のろ》く緩くなったあげく、うっかりとして脱石《ぬけいし》に爪端《つまさき》を踏掛《ふんがけ》けたので、ずるりと滑《すべ》る、よろよろッと踉蹌《よろけ》る、ハッと思う間も無くクルリと転《まわ》ってバタリと倒れたが、すぐには起きも上《あェ》り得ないでまず地《つち》に手を突《つ》いて上半身を起して、見ると我が村の方はちょうど我が眼の前に在った。すると源三は何を感じたか滝《たき》のごとくに涙を墜《おと》して、ついには啜《すす》り泣《なき》して止《や》まなかったが、泣いて泣いて泣き尽《つく》した果《はて》に竜鍾《しおしお》と立上って、背中に付けていた大《おおき》な団飯《むす
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