び》を抛《ほう》り捨ててしまって、吾家《わがや》を指して立帰った。そして自分の出来るだけ忠実《まめやか》に働いて、叔父が我が挙動《しうち》を悦んでくれるのを見て自分も心から喜ぶ余りに、叔母の酷《むご》さをさえ忘れるほどであった。それで二度までも雁坂越をしようとした事はあったのであるが、今日まで噫《おくび》にも出さずにいたのであった。
ただよく愛するものは、ただよく解するものである。源三が懐《いだ》いているこういう秘密を誰から聞いて知ろうようも無いのであるが、お浪は偶然にも云い中《あ》てたのである。しかし源三は我が秘密はあくまでも秘密として保って、お浪との会話《はなし》をいい程《ほど》のところに遮《さえぎ》り、余り帰宅《かえり》が遅くなってはまた叱られるからという口実のもとに、酒店《さかや》へと急いで酒を買い、なお村の尽頭《はずれ》まで連れ立って来たお浪に別れて我が村へと飛ぶがごとくに走り帰った。
その四
ちょうどその日は樽《たる》の代り目で、前の樽の口のと異《ちが》った品ではあるが、同じ価《ね》の、同じ土地で出来た、しかも質《もの》は少し佳《よ》い位のものであるという酒店《さかや》の挨拶《あいさつ》を聞いて、もしや叱責《こごと》の種子《たね》にはなるまいかと鬼胎《おそれ》を抱《いだ》くこと大方ならず、かつまた塩《しお》文※[#「遙」の「しんにゅう」が「魚」、第4水準2−93−69、76−5]《とび》を買って来いという命令《いいつけ》ではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖《しおさば》を買ったについても一ト方ならぬ鬼胎《おそれ》を抱いた源三は、びくびくもので家の敷居《しきい》を跨《また》いでこの経由《わけ》を話すと、叔母の顔は見る見る恐ろしくなって、その塩鯖の※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76−8]包《かわづつ》みを手にするや否《いな》やそれでもって散々《さんざん》に源三を打《ぶ》った。
何で打たれても打たれて佳いというものがあるはずは無いが、火を見ぬ塩魚の悪腥《わるなまぐさ》い――まして山里の日増しものの塩鯖の腐《くさ》りかかったような――奴《やつ》の※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76−10]包みで、力任せに眼とも云わず鼻とも云わず打たれるのだから堪《こら》えられた訳のものでは無い。まず※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76−12]《たけのかわ》は幾条《いくすじ》にも割《わ》れ裂《さ》ける、それでもって打たれるので※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76−12]《かわ》の裂目のひりひりしたところが烈《はげ》しく触《さわ》るから、ごくごく浅い疵《きず》ではあるが松葉《まつば》でも散らしたように微疵《かすりきず》が顔へつく。そこへ塩気《しおけ》がつく、腥気《なまぐさっけ》がつく、魚肉《にく》が迸裂《はぜ》て飛んで額際《ひたいぎわ》にへばり着いているという始末、いやはや眼も当てられない可厭《いや》な窘《いじ》めようで、叔母のする事はまるで狂気《きちがい》だ。もちろん源三は先妻の縁引きで、しかも主人《あるじ》に甚《ひど》く気に入っていて、それがために自分がここへ養子に入れて、生活状態《くらしざま》の割には山林《やま》やなんぞの資産の多いのを譲《ゆず》り受けさせようと思っている我が甥がここへ入れないのであるから、憎《にく》いにはあくまで憎いであろうが、一つはこの女の性質が残忍《ざんにん》なせいでもあろうか、またあるいは多くの男に接したりなんぞして自然の法則を蔑視《べっし》した婦人等《おんなたち》は、ややもすれば年老《としお》いて女の役の無くなる頃《ころ》に臨《のぞ》むと奇妙《きみょう》にも心状《こころ》が焦躁《じれ》たり苛酷《いらひど》くなったりしたがるものであるから、この女もまたそれ等《ら》の時に臨んでいたせいででもあろうか、いかに源三のした事が気に入らないにせよ、随分《ずいぶん》尋常外《なみはず》れた責めかたである。
最初は仕方が無いと諦めて打たれた。二度目は情無いと思いながら打たれた。三度目四度目になれば、口惜しいと思いながら打たれた。それから先はもう死んだ気になってしまって打たれていたが、余りいつまでも打たれている中《うち》に障《ささ》えることの出来ない怒《いかり》が勃然《ぼつぜん》として骨々《ほねぼね》節々《ふしぶし》の中から起って来たので、もうこれまでと源三は抵抗《ていこう》しようとしかけた時、自分の気息《いき》が切れたと見えて叔母は突き放って免《ゆる》した。そこで源三は抵抗もせずに、我を忘れて退いて平伏《ひれふ》したが、もう死んだ気どころでは無い、ほとんど全く死んでいて、眼には涙も持たずにいた。
その夜源三は眠《ねむ》りかねたが、それでも少年の罪の無さに
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