は暁天方《あかつきがた》になってトロリとした。さて目※[#「目へん+屯」、補助4556、78−5]《まどろ》む間も無く朝早く目が覚《さ》めると、平生《いつも》の通り朝食《あさめし》の仕度にと掛ったが、その間々《ひまひま》にそろりそろりと雁坂越の準備《ようい》をはじめて、重たいほどに腫《は》れた我が顔の心地|悪《あ》しさをも苦にぜず、団飯《むすび》から脚《あし》ごしらえの仕度まですっかりして後、叔母にも朝食をさせ、自分も十分に喫《きっ》し、それから隙《すき》を見て飄然《ふい》と出てしまった。
家を出て二三町歩いてから持って出た脚絆《きゃはん》を締《し》め、団飯《むすび》の風呂敷包《ふろしきづつ》みをおのが手作りの穿替《はきか》えの草鞋《わらじ》と共に頸《くび》にかけて背負い、腰の周囲《まわり》を軽くして、一ト筋の手拭《てぬぐい》は頬《ほお》かぶり、一ト筋の手拭は左の手首に縛《くく》しつけ、内懐《うちぶところ》にはお浪にかつてもらった木綿財布《もめんざいふ》に、いろいろの交《まじ》り銭《ぜに》の一円少し余《よ》を入れたのを確《しか》と納め、両の手は全空《まるあき》にしておいて、さて柴刈鎌《しばかりがま》の柄《え》の小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしながら、だんだんと川上へ登り詰めた。
やがて前《さき》の日叔父の言《ことば》を聞いて引返したところへかかると、源三の歩みはまた遅くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩としばらく隠れた大《おおき》な岩とをやや久《ひさ》しく見ていたが、そのあげくに突然と声張り上げて、ちとおかしな調子で、「我は官軍、我が敵は」と叫《さけ》び出して山手へと進んだ。山鳴り谷答えて、いずくにか潜《ひそ》んでいる悪魔《あくま》でも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にも紛《まぎ》れずに聞えた。
それから源三はいよいよ分り難《にく》い山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そして遥《はるか》に遠く武蔵一国が我が脚下《あしもと》に開けているのを見ながら、蓬々《ほうほう》と吹く天《そら》の風が頬被《ほおかぶ》りした手拭に当るのを味った時は、躍《おど》り上《あが》り躍り上って悦んだ。しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然《あんぜん》としても心も昧《くら》くなるような気持がして、しかもその薄《うっ》すりと霞んだ霞《かすみ》の底《そこ》から、
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桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛《みやこ》女郎衆《じょろしゅ》も、桑を摘め。
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と清い清い澄み徹《とお》るような声で唱い出されたのが聞えた。もとより聞えるはずが有ろう訳は無いのであるが。
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(明治三十六年五月)
底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
※底本の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1−6−81)は、「ト」に置き換えました。但し「トロリ」(底本78ページ−4行)の「ト」を除きます。
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:林 幸雄
2001年10月2日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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