何も無いのだが、大器氏は又驚いた。そして何だか知らずにハッと思つた。すると戸外《そと》の雨の音はザアッと続いて居た。時計の音は忽ち消えた。眼が見てゐる秒針の動きは止まりはしなかつた、確実な歩調で動いて居た。
何となく妙な心持になつて頭を動かして室内を見廻はした。洋燈の光がボーッと上を照らして居るところに、煤びた額が掛つてゐるのが眼に入つた。間抜な字体で何の語かが書いてある。一字づゝ心を留めて読んで見ると、
橋流水不流
とあつた。橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱ひ、胸の中で咬《か》んで居ると、忽ち昼間渡つた仮そめの橋が洶※[#二の字点、1−2−22]《きよう/\》と流れる渓川の上に架渡されて居た景色が眼に浮んだ。水はどう/\と流れる、橋は心細く架渡されてゐる。橋流れて水流れず。ハテ何だか解ら無い。シーンと考へ込んでゐると、忽ち誰だか知らないが、途方も無い大きな声で
橋流れて水流れず
と自分の耳の側《はた》で怒鳴りつけた奴が有つて、ガーンとなつた。
フト大器氏は自ら嘲つた。ナンダこんな事、とかく此様《こん》な変な文句が額なんぞには書いてある
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