方には少くとも危険――は有りますまいが余計な御心配はさせたく有りません。幸なことには此庭の左方《ひだり》の高みの、彼の小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全地で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そこへ今の内に移つて居て頂きたいのです。わたくしが直に御案内致します、手早く御支度をなすつて頂きます。
ト末の方はもはや命令的に、早口に能弁にまくし立てた。其後について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開しながら、
 膝まで水が来るやうだと歩けんからノ、早く御身繕《おみづくろ》ひなすつて。
と追立てるやうに警告した。大器晩成先生は一[#(ト)]たまりも無く浮腰になつて仕舞つた。
 ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。
ト少しドギマギして、顫へて居はしまいかと自分でも気が引けるやうな弱い返辞をしながら、慌てゝ衣を着けて支度をした。勿論少し大きな肩から掛ける鞄《カバン》と、風呂敷包一ツ、蝙蝠傘一本、帽子、それだけなのだから直に支度は出来た。若僧は提灯を持つて先に立つた。此時になつて初めて其の服装《みなり》を見ると、依然として先刻《さつき》の鼠の衣だつた
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