殿の在りさうな位置のところに礎石が幾箇《いくつ》ともなく見えて、親切な雨が降る度に訪問するのであらう今も其訪問に接して感謝の嬉し涙を溢らせてゐるやうに、柱の根入りの竅《あな》に水を湛へてゐるのが能く見えた。境内の変にからりとして居る訳もこれで合点が行つて、有る可きものが亡《う》せてゐるのだなと思ひながら、庫裡へと入つた。正面はぴつたりと大きな雨戸が鎖されてゐたから、台所口のやうな処が明いてゐたまゝ入ると、馬鹿にだゞ濶い土間で、土間の向ふ隅には大きな土竈《へつつひ》が見え、つい入口近くには土だらけの腐つたやうな草履が二足ばかり、古い下駄が二三足、特《こと》に歯の抜けた下駄の一ツがひつくり返つて腹を出して死んだやうにころがつてゐたのが、晩成先生のわびしい思を誘つた。
 頼む、
と余り大きくは無い声で云つたのだが、がらんとした広土間に響いた。しかし其為に塵一ツ動きもせず、何の音も無く静であつた。外にはサアッと雨が降つてゐる。
 頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答は無い。サアッと雨が降つてゐる。
 頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだ其人の耳へ反つて響いた。然し答は何処からも起らなかつた。外は
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