自分の苗字をいわれたのが甚《ひど》く気になった。若僧も告げなければ自分も名乗らなかったのであるのに、特《こと》に全くの聾《つんぼ》になっているらしいのに、どうして知っていたろうと思ったからである。しかしそれは蔵海が指頭《ゆびさき》で談《かた》り聞かせたからであろうと解釈して、先ず解釈は済ませてしまった。寝ようか、このままに老僧の真似をして暁《あかつき》に達してしまおうかと、何かあろうといってくれた押入らしいものを見ながらちょっと考えたが、気がついて時計を出して見た。時計の針は三時少し過ぎであることを示していた。三時少し過ぎているから、三時少し過ぎているのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。ジッと時計の文字盤を見詰めたが、遂に時計を引出して、洋燈《ランプ》の下、小机の上に置いた。秒針はチ、チ、チ、チと音を立てた。音がするのだから、音が聞えるのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。そして何だか知らずにハッと思った。すると戸外《そと》の雨の音はザアッと続いていた。時計の音は忽《たちま》ち消えた。眼が見ている秒針の動きは止まりはしなかった、確実な歩調で動いていた。
 
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