た事ではなかった。
 急いでいるからであろう、若僧は直《すぐ》にその手拭で泥足をあらましに拭いて、提灯を持ったまま、ずんずんと上《あが》り込んだ。四畳半の茶の間には一尺二寸位の小炉《しょうろ》が切ってあって、竹の自在鍵《じざい》の煤《すす》びたのに小さな茶釜《ちゃがま》が黒光りして懸《かか》っているのが見えたかと思うと、若僧は身を屈して敬虔の態度にはなったが、直《すぐ》と区劃《しきり》になっている襖《ふすま》を明けてその次の室《ま》へ、いわば闖入《ちんにゅう》せんとした。土間からオズオズ覗《のぞ》いて見ている大噐氏の眼には、六畳敷位の部屋に厚い坐蒲団《ざぶとん》を敷いて死せるが如く枯坐《こざ》していた老僧が見えた。着色の塑像の如くで、生きているものとも思えぬ位であった。銀のような髪が五分ばかり生えて、細長い輪郭の正しい顔の七十位の痩《や》せ枯《から》びた人ではあったが、突然の闖入に対して身じろぎもせず、少しも驚く様子もなく落《おち》つき払った態度で、あたかも今まで起きてでもいた者のようであった。特《こと》に晩成先生の驚いたのは、蔵海がその老人に対して何もいわぬことであった。そしてその老
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