僧の坐辺《ざへん》の洋燈《ランプ》を点火すると、蔵海は立返って大噐氏を上へ引《ひき》ずり上げようとした。大噐氏は慌《あわ》てて足を拭《ぬぐ》って上ると、老僧はジーッと細い眼を据えてその顔を見詰めた。晩成先生は急に挨拶の言葉も出ずに、何か知らず叮嚀《ていねい》に叩頭《おじぎ》をさせられてしまった。そして頭《かしら》を挙げた時には、蔵海は頻《しき》りに手を動かして麓《ふもと》の方の闇を指したり何かしていた。老僧は点頭《うなず》いていたが、一語をも発しない。
蔵海はいろいろに指を動かした。真言宗《しんごんしゅう》の坊主の印《いん》を結ぶのを極めて疾《はや》くするようなので、晩成先生は呆気《あっけ》に取られて眼ばかりパチクリさせていた。老僧は極めて徐《しず》かに軽く点頭《うなず》いた。すると蔵海は晩成先生に対《むか》って、
このかたは耳が全く聞えません。しかし慈悲の深い方ですから御安心なさい。ではわたくしは帰りますから。
トいって置いて、初《はじめ》の無遠慮な態度とはスッカリ違って叮嚀《ていねい》に老僧に一礼した。老僧は軽く点頭《うなず》いた。大噐氏にちょっと会釈するや否や、若僧は落付いた、しかしテキパキした態度で、かの提灯を持って土間へ下り、蓑笠《みのがさ》するや否や忽《たちま》ち戸外《そと》へ出て、物静かに戸を引寄せ、そして飛ぶが如くに行ってしまった。
大噐氏は実に稀有《けう》な思《おもい》がした。この老僧は起きていたのか眠っていたのか、夜中《やちゅう》真黒《まっくら》な中に坐禅ということをしていたのか、坐りながら眠っていたのか、眠りながら坐っていたのか、今夜だけ偶然にこういう態《てい》であったのか、始終こうなのか、と怪《あやし》み惑《まど》うた。もとより真の已達《いたつ》の境界《きょうがい》には死生の間《かん》にすら関所がなくなっている、まして覚めているということも睡《ねむ》っているということもない、坐っているということと起きているということとは一枚になっているので、比丘《びく》たる者は決して無記《むき》の睡《ねむり》に落ちるべきではないこと、仏説離睡経《ぶっせつりすいきょう》に説いてある通りだということも知っていなかった。またいくらも近い頃の人にも、死の時のほかには脇を下に着け身を横たえて臥《ふ》さぬ人のあることをも知らなかったのだから、吃驚《びっくり》したのは無理でもなかった。
老僧は晩成先生が何を思っていようとも一切無関心であった。
□□さん、サア洋燈《ランプ》を持ってあちらへ行って勝手に休まっしゃい。押入《おしいれ》の中に何かあろうから引出して纏《まと》いなさい、まだ三時過ぎ位のものであろうから。
ト老僧は奥を指さして極めて物静《ものしずか》に優しくいってくれた。大噐氏は自然に叩頭《おじぎ》をさせられて、その言葉通りになるよりほかはなかった。洋燈《ランプ》を手にしてオズオズ立上《たちあが》った。あとはまた真黒闇《まっくらやみ》になるのだが、そんな事をとかくいうことはかえって余計な失礼の事のように思えたので、そのままに坐を立って、襖《ふすま》を明けて奥へ入った。やはり其処《そこ》は六畳敷位の狭さであった。間《あい》の襖を締切《しめき》って、そこにあった小さな机の上に洋燈《ランプ》を置き、同じくそこにあった小坐蒲団《こざぶとん》の上に身を置くと、初めて安堵《あんど》して我に返ったような気がした。同時に寒さが甚《ひど》く身に染《し》みて胴顫《どうぶるい》がした。そして何だかがっかりしたが、漸《ようや》く落《おち》ついて来ると、□□さんと自分の苗字をいわれたのが甚《ひど》く気になった。若僧も告げなければ自分も名乗らなかったのであるのに、特《こと》に全くの聾《つんぼ》になっているらしいのに、どうして知っていたろうと思ったからである。しかしそれは蔵海が指頭《ゆびさき》で談《かた》り聞かせたからであろうと解釈して、先ず解釈は済ませてしまった。寝ようか、このままに老僧の真似をして暁《あかつき》に達してしまおうかと、何かあろうといってくれた押入らしいものを見ながらちょっと考えたが、気がついて時計を出して見た。時計の針は三時少し過ぎであることを示していた。三時少し過ぎているから、三時少し過ぎているのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。ジッと時計の文字盤を見詰めたが、遂に時計を引出して、洋燈《ランプ》の下、小机の上に置いた。秒針はチ、チ、チ、チと音を立てた。音がするのだから、音が聞えるのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。そして何だか知らずにハッと思った。すると戸外《そと》の雨の音はザアッと続いていた。時計の音は忽《たちま》ち消えた。眼が見ている秒針の動きは止まりはしなかった、確実な歩調で動いていた。
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