何となく妙な心持になって頭を動かして室内を見廻わした。洋燈《ランプ》の光がボーッと上を照らしているところに、煤《すす》びた額《がく》が掛っているのが眼に入った。間抜《まぬけ》な字体で何の語かが書いてある。一字ずつ心を留めて読んで見ると、
橋流水不流
とあった。橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱い、胸の中で咬《か》んでいると、忽《たちま》ち昼間渡った仮《かり》そめの橋が洶※[#二の字点、1−2−22]《きょうきょう》と流れる渓川《たにがわ》の上に架渡《かけわた》されていた景色が眼に浮んだ。水はどうどうと流れる、橋は心細く架渡《かけわた》されている。橋流れて水流れず。サテ何だか解らない。シーンと考え込んでいると、忽《たちま》ち誰だか知らないが、途方もない大きな声で
橋流れて水流れず
と自分の耳の側《はた》で怒鳴《どな》りつけた奴があって、ガーンとなった。
フト大噐氏は自《みずか》ら嘲《あざけ》った。ナンダこんな事、とかくこんな変な文句が額なんぞには書いてあるものだ、と放下《ほうげ》してしまって、またそこらを見ると、床《とこ》の間《ま》ではない、一方の七、八尺ばかりの広い壁になっているところに、その壁をいくらも余さない位な大きな古びた画《え》の軸《じく》がピタリと懸っている。何だか細かい線で描《か》いてある横物《よこもの》で、打見たところはモヤモヤと煙っているようなばかりだ。紅《あか》や緑や青や種※[#二の字点、1−2−22]《いろいろ》の彩色《さいしき》が使ってあるようだが、図が何だとはサッパリ読めない。多分ありがちな涅槃像《ねはんぞう》か何かだろうと思った。が、看《み》るともなしに薄い洋燈《ランプ》の光に朦朧《もうろう》としているその画面に眼を遣《や》っていると、何だか非常に綿密に楼閣だの民家だの樹だの水だの遠山だの人物だのが描《か》いてあるようなので、とうとう立上《たちあが》って近くへ行って観《み》た。するとこれは古くなって処※[#二の字点、1−2−22]《ところどころ》汚れたり損じたりしてはいるが、なかなか叮嚀《ていねい》に描《か》かれたもので、巧拙は分らぬけれども、かつて仇十州《きゅうじっしゅう》の画だとか教えられて看たことのあるものに肖《に》た画風で、何だか知らぬが大層な骨折から出来ているものであることは一目《ひとめ》に明らかであった。そこで特《ことさら》に洋燈《ランプ》を取って左の手にしてその図に近※[#二の字点、1−2−22]《ちかぢか》と臨んで、洋燈《ランプ》を動かしては光りの強いところを観ようとする部分※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に移しながら看た。そうしなければ極めて繊細な画が古び煤けているのだから、ややもすれば看て取ることが出来なかったのである。
画は美《うる》わしい大江《たいこう》に臨んだ富麗《ふれい》の都の一部を描いたものであった。図の上半部を成している江《え》の彼方《むこう》には翠色《すいしょく》悦ぶべき遠山が見えている、その手前には丘陵が起伏している、その間に層塔《そうとう》もあれば高閤《こうこう》もあり、黒ずんだ欝樹《うつじゅ》が蔽《おお》うた岨《そば》もあれば、明るい花に埋《うず》められた谷もあって、それからずっと岸の方は平らに開けて、酒楼《しゅろう》の綺麗なのも幾戸《いくこ》かあり、士女老幼、騎馬の人、閑歩《かんぽ》の人、生計にいそしんでいる負販《ふはん》の人、種※[#二の字点、1−2−22]雑多の人※[#二の字点、1−2−22]が蟻ほどに小さく見えている。筆はただ心持で動いているだけで、勿論その委曲が画《か》けている訳ではないが、それでもおのずからに各人の姿態や心情が想い知られる。酒楼の下の岸には画舫《がほう》もある、舫中の人などは胡麻《ごま》半粒ほどであるが、やはり様子が分明に見える。大江の上には帆走《ほばし》っているやや大きい船もあれば、篠《ささ》の葉形の漁舟《ぎょしゅう》もあって、漁人の釣《つり》しているらしい様子も分る。光を移してこちらの岸を見ると、こちらの右の方には大きな宮殿|様《よう》の建物があって、玉樹※[#「王+其」、第3水準1−88−8]花《ぎょくじゅきか》とでもいいたい美しい樹や花が点綴《てんてい》してあり、殿下の庭|様《よう》のところには朱欄曲※[#二の字点、1−2−22]《しゅらんきょくきょく》と地を劃《かく》して、欄中には奇石もあれば立派な園花《えんか》もあり、人の愛観を待つさまざまの美しい禽《とり》などもいる。段※[#二の字点、1−2−22]と左へ燈光《ともしび》を移すと、大中小それぞれの民家があり、老人《としより》や若いものや、蔬菜《そさい》を荷《にな》っているものもあれば、蓋《かさ》を
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