観画談
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)或《ある》人
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)普通人|型《がた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)段※[#二の字点、1−2−22]
[#…]:返り点
(例)嚢中自有[#レ]銭
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)一[#(ト)]夕立
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ずっと前の事であるが、或《ある》人から気味合《きみあい》の妙《みょう》な談《はなし》を聞いたことがある。そしてその話を今だに忘れていないが、人名や地名は今は既に林間《りんかん》の焚火《たきび》の煙のように、何処《どこ》か知らぬところに逸《いっ》し去っている。
話をしてくれた人の友達に某甲《なにがし》という男があった。その男は極めて普通人|型《がた》の出来の好い方《ほう》で、晩学ではあったが大学も二年生まで漕ぎ付けた。というものはその男が最初|甚《はなは》だしい貧家に生れたので、思うように師を得て学に就くという訳《わけ》には出来なかったので、田舎《いなか》の小学を卒《おえ》ると、やがて自活生活に入って、小学の教師の手伝《てつだい》をしたり、村役場《むらやくば》の小役人みたようなことをしたり、いろいろ困苦勤勉の雛型《ひながた》その物の如き月日を送りながらに、自分の勉強をすること幾年であった結果、学問も段※[#二の字点、1−2−22]進んで来るし人にも段※[#二の字点、1−2−22]認められて来たので、いくらか手蔓《てづる》も出来て、終《つい》に上京して、やはり立志篇《りっしへん》的の苦辛《くしん》の日を重ねつつ、大学にも入ることを得るに至ったので、それで同窓《どうそう》中では最年長者――どころではない、五ツも六ツも年上であったのである。蟻《あり》が塔《とう》を造るような遅※[#二の字点、1−2−22]たる行動を生真面目《きまじめ》に取って来たのであるから、浮世の応酬《おうしゅう》に疲れた皺《しわ》をもう額《ひたい》に畳んで、心の中にも他の学生にはまだ出来ておらぬ細かい襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》が出来ているのであった。しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生になり得たような気がして、実に清浄純粋な、いじらしい愉悦と矜持《きょうじ》とを抱いて、余念もなしに碩学《せきがく》の講義を聴いたり、豊富な図書館に入ったり、雑事に侵《おか》されない朝夕《ちょうせき》の時間の中に身を置いて十分に勉強することの出来るのを何よりも嬉《うれ》しいことに思いながら、いわゆる「勉学の佳趣《かしゅ》」に浸《ひた》り得ることを満足に感じていた。そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成《たいきばんせい》先生などという諢名《あだな》、それは年齢の相違と年寄《としより》じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気な、言い換《かえ》れば低級でかつ無意味な飲食の交際や、活溌な、言い換れば青年的勇気の漏洩《ろうえい》に過ぎぬ運動遊戯の交際に外れることを除けば、何人《なんぴと》にも非難さるべきところのない立派なものであった。で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内※[#二の字点、1−2−22]は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉《ちゃめきち》一、二人のほかは、無言の同情を寄せるに吝《やぶさか》ではなかった。
ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬《むく》いられて前途の平坦|光明《こうみょう》が望見《ぼうけん》せらるるようになった気の弛《ゆる》みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名が甫《はじ》めて知られ出した時分であったのだが、真にいわゆる神経衰弱であったか、あるいは真に漫性胃病であったか、とにかく医博士《いはかせ》たちの診断も朦朧《もうろう》で、人によって異《ことな》る不明の病《やまい》に襲われて段※[#二の字点、1−2−22]衰弱した。切詰《きりつ》めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍|困悶《こんもん》したが、どうも病気には勝てぬことであるから、暫《しばら》く学事を抛擲《ほうてき》して心身の保養に力《つと》めるが宜《よ》いとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》を吸うべく東京の塵埃《じんあい》を背後《うしろ》に
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