る。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政は中々硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐に憑《つ》かれておわすなぞと罵《ののし》ることもある程だが、平日は穏便なることが好きな、物分りの宜い人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を吝《おし》む人では無い。有馬、金森、いずれも中々立派に一[#(ト)]器量ある人々であり、他の人々も利家が其席を尊《たっと》くして吾子《わがこ》の利長利政をも同坐させなかった程だから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのが宜い訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは卑怯《ひきょう》で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そして飽迄も双方を取纏《とりまと》めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞは却《かえ》って要せぬのである。
 人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂でウムと坐っている。それも其筈で、いろいろの経緯《いきさつ》があった蒲生忠三郎を面前に扣《ひか》えているのであるから。又蒲生忠三郎氏郷も、何をと云わぬばかりの様子でスイと澄まして居る。これも其筈だ。氏郷は「錐《きり》、嚢《ふくろ》にたまらぬ風情の人」だと記されて居るから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「其節御勝手衆も申候は、今日政宗の体《てい》、大納言殿御[#(ン)]屋にて無く候はば、まんをも仕《つかまつ》られ申すべく候、又飛騨守殿も少も/\左様の事|堪忍《かんにん》これなき仁にて、事も出来申候事も之有るべく候へども云々《うんぬん》」とある。まんとは我儘《わがまま》である。氏郷政宗二人の様子を饗応《きょうおう》掛りの者の眼から見たところを写して居るのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣《かたぎぬ》でいる、それは可《よ》い、脇指をさして居る、それも可いが、其の脇指が朱鞘《しゅざや》の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼は斯様《かよう》な恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、寧《むし》ろ此処《ここ》が政宗の好い処である。脇指は如何に長くても脅かしにはならぬ、まして一坐の者は皆|血烟《ちけむ》りの灌頂《かんちょう》洗礼を受けている者達だ。だから其の恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んで此を使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、罷《まか》り間違ったら、おれはおれだ、の料簡《りょうけん》がある。何十万石も捨てる、生命《いのち》も捨てる、屈辱に生きることは嫌だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。沸《たぎ》り立った魂は誰も斯様《こう》である。これが男児たる者の立派な根性で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳を食わせられたが、其時はもう「蟻、牡丹《ぼたん》に上る、観を害せず」で、殴った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、此時はまだ若盛り、二十六七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄てては生甲斐が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗は又人に異った一[#(ト)]気象が有った者で、茶の湯を学んでから、そこは如何に政宗でも時代の風には捲込《まきこ》まれて、千金もする茶碗を買った。ところが其を玩賞《がんしょう》していた折から、ふと手を滑らせて其茶碗を落した。すると流石《さすが》大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら慚《は》じ自ら憤った。貴《たっと》いとは云え多寡が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ忌々《いまいま》しい、と其の茶碗を把《と》って、ハッシ、庭前の石へ叩きつけて粉にして終《しま》ったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところは些《ちと》癇癪《かんしゃく》が強過ぎるか知らぬが、物に囚《とら》われる心を砕いたところは千両じゃ廉《やす》いくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊した其政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にして居る、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そして其の対坐《むこうざ》に坐って居るのは、古い油筒を取上げて三百年も後まで其器の名を伝えた氏郷である。片や割茶碗、片や油筒、好い取組である。
 氏郷其日の容儀《ようぎ》は別に異様では無かった。「飛騨守殿|仕立《したて》は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって精《くわ》しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。主人はじめ其他の人々も無論普通礼服で、法印等|法体《ほったい》の人々は直綴《じきとつ》などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けて之を読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かった。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御[#(ン)]仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門大出来、大出来。太閤《たいこう》が死病の時、此人の手を押頂いて、秀頼の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手を此人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、此時此場、此上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の徳山《とくさん》の意気である、それも慥《たしか》におもしろい。然し利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗は殊のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いて居るが、如何に政宗でも、扱い役である利家に対《むか》って此語を如何ともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。然し政宗も悪くはなかった、遠国に候故、と云って謹んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼宜しく有って、遂に無事円満に其席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家に此事を申付けられたのも御尤《ごもっとも》だった、というので秀吉までが讃《ほ》められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳持物の豪華から起ったの、朝鮮陣の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や薙刀《なぎなた》などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。
 天正二十年即ち文禄元年、彼の朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが上洛《じょうらく》の途に上った。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。茫々《ぼうぼう》たる曠野、草莱《そうらい》いたずらに茂って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と歎《たん》じた。歌のおもては勿論那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。然し歌は顕昭|阿闍黎《あじゃり》の論じた如く、詩は祇園南海の説いた如く、其裏に汲めば汲むべき意の自然に存して居るものである。此歌を味わえば氏郷が身|漸《ようや》く老いんとして志未だ遂げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋を過ぎ信濃へ入ったところ、火を有《も》つ浅間の山の煙は濛々《もうもう》漠々として天を焦して居る。そこで「信濃なる浅間の岳《たけ》は何を思ふ」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦がして思うところが有るからであったろう。
 肥前名護屋に在って太閤《たいこう》に侍して居た頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを悦《よろこ》ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようと云った時、氏郷が大《おおい》に悦んで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い談《はなし》である。其事は実現し無かったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、齢《よわい》は四十歳で有ったが、其死後右筆頭の満田長右衛門が或時氏郷の懸硯《かけすずり》を開いて、「朝鮮へ国替《くにかへ》仰せ付けられたく、一類|眷属《けんぞく》悉《こと/″\》く引率して彼地へ渡り、直ちに大明《だいみん》に取って掛り、事果てぬ限りは帰国|仕《つかまつ》るまじき旨の目安《めやす》」を作り置かれしが、これを上《たてまつ》らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤に其材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずして然様《そう》いう考を起したのであるというが、そんな蝨《しらみ》ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺|梯子《ばしご》は九尺梯子で、後の太平の世に生れて女飯《おんなめし》を食った史伝家輩は、元亀天正の丈高い人を見損う傾がある。
 太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田|掃部《かもん》正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々《いまいま》しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯《は》いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が然様《そん》なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は却《かえ》って彼様《あんな》にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような寐惚《ねぼ》けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、若《も》し太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟《おきて》するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は些《ちと》合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康|上洛《じょうらく》を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、猶更《なおさら》利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家|贔屓《びいき》であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、彼《あ》の物悋《ものおし》みめがナニ、と云った談《はなし》が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌《さいき》の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒《ざん》に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸《うなじ》
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