の傍《かたわら》、肉少く、目の下|微《すこ》し浮腫《ふしゅ》し、其後|腫脹《しゅちょう》弥《いよいよ》甚しかったと記してある。法眼|正純《まさずみ》の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の半井道三《なからいどうさん》等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓《じんぞう》などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可[#レ]惜談笑中窃置[#二]|鴆毒《ちんどく》[#一]」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。
 彼《か》の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ青柳《あをやぎ》の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて終《しま》った後に何になろう。且《かつ》其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》などはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を有《も》とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸《たぎ》り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十六巻」岩波書店
   1978(昭和53)年
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年6月27日作成
2007年5月29日修正
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