蒲生氏郷
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嘴《くちばし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)微物凡物も亦|是《かく》の如く

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]

 [#…]:返り点
 (例)老来不[#レ]識

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)今一[#(ト)]勝負

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)又飛騨守殿も少も/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴《くちばし》といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲《す》んで居た一夜庵《いちやあん》の宗鑑の膚《はだえ》を螫《さ》して、そして宗鑑に瘧《おこり》をわずらわせ、それより近衛《このえ》公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔《かぎゃく》を発せしめ、随《しがた》って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧《はいかい》連歌《れんが》の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅《はえ》といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅《せいよう》は肉汁を好んで溺《おぼ》れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々《いまいま》しいことは宋《そう》の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作《な》すに至らしめ、其の逐《お》えば逃げ、逃げては復《また》集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬《なぞら》えて、流石《さすが》の伊達政宗をして首《こうべ》を俛《ふ》して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡《りょうけん》を定めしめた。微物凡物も亦|是《かく》の如くである。本より微物凡物を軽《かろ》んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤《のみ》のような男、蝨《しらみ》のような女が、何様《どう》致した、彼様《こう》仕《つかまつ》った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、尤《もっとも》千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎《あまろう》ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子《しし》や虎のようなもの、鰐魚《わに》や鯱鉾《しゃちほこ》のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人《わいじん》や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝《すぐ》れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行《はや》る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定《き》まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰|牢固《ろうこ》の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって沸《たぎ》りきった湯のような代もある、黴菌《ばいきん》のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様《どん》なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯《かんれん》して、天正十八年、陸奥《むつ》出羽《でわ》の鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷《がもううじさと》を中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚《とら》われて終《しま》うのもうるさい。考証家、穿鑿《せんさく》家、古文書いじり、紙魚《しみ》の化物と続西遊記に罵《ののし》られているような然様《そう》いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直《こねなお》して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気《せんき》筋に引張りまわして変な牽糸傀儡《あやつりにんぎょう》を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八《まんぱち》を無遠慮に加えず、斯様《こう》も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇《うちわ》を揮《ふる》って放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤《ちからこぶ》を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁《ほるい》を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服《なり》をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕《とうこん》を談ずるような埒《らち》も無いことで、何も彼も滅茶《めちゃ》滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷《ちまた》となった。当時の武士、喧嘩《けんか》商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽《ひ》き鷹を肘《ひじ》にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落《しゃれ》た遊技を知っているほど怜悧《れいり》でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕《ばくち》を打って閑《ひま》を潰《つぶ》す。戦《いくさ》ということが元来博奕的のものだから堪《たま》らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行《はや》る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭《か》ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止《や》められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々《いよいよ》負けて復《また》取られて終うと、終《つい》には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一[#(ト)]勝負したいと、それでは乃公《おれ》は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕《ぶんどり》して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一[#(ト)]戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有《けう》では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾《わ》が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様《こう》いう民衆の態度や料簡方《りょうけんかた》は、今では一寸想像されぬが、中々|手強《てごわ》いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西《かさい》大崎の地に一揆《いっき》が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を援《たす》けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々《しゅくじゅく》の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒《しゅんきょ》した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守《ろうしゅ》している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇《あだ》もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗《ひょうとう》的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特《こと》に足利《あしかが》氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽《れきじん》させられている。ひとり明智光秀が小栗栖《おぐるす》長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又|手苛《てひど》い領主や敵将に出遇《であ》った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終《しま》う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜《へちま》も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直《こうのもろなお》に取っては臣下の妻妾《さいしょう》は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様《そう》いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐《だいご》の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆《ゆうひつ》に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬《たと》えば乱れ垢《あか》づいた髪を歯の疎《あら》い丈夫な櫛《くし》でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関《かま》うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一[#(ト)]かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇って
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