殉死しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌嫌ったけれど、其基信も須田大膳も、馬場右衛門という人も遂に殉死して終った。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をも悪《にく》んだ。で、大膳は狂者のように謂《い》われ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、其子は優遇されなくても普通には取扱われても然るべきだが、主人の意に負《そむ》いたと云う廉《かど》であろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけ彼《か》につけ、日頃不快に思っていた。これも亦凡人である以上は人情の当《まさ》に然るべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底政宗に容れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附いた方が賢いと思った。丁度其家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者は扨々なさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。
そこで其十九日の夜深《よふか》に須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘を訐《あば》いた者となって居る。
蒲生源左衛門は須田等を糺《きゅう》した。二人は証拠文書を攘《と》って来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城と計《はかりごと》を合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図|合期《ごうご》せざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上に、高清水に籠城《ろうじょう》して居る者も、亦佐沼の城を囲んで居る者も、皆政宗の指図に因って実は働いて居る者であることを語り、能《よ》く政宗が様子を御見留めなされて後に御働きなさるべしと云った。
二人が言は悉皆《しっかい》信ずべきか何様《どう》かは疑わしかったろう。然し氏郷は証拠とすべきところの物を取って、且二人を収容して生証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を一揆《いっき》が殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮する要は無い。却《かえ》って此城に動かずに居れば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻を敢てせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆は頻《しき》りに働いたことだろう。
氏郷は兵粮《ひょうろう》を徴発し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へ馳《は》せ、会津からは弾薬を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何とも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝|鏖殺《おうさつ》が期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身《わがみ》の破滅であるから為す術《すべ》は無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰って終《しま》った。勿論氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷が此を知って黙して居たのであることも勿論である。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さを以て遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分|畏《おそ》れ縮んで居り、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られて居るのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請求めたので、之を諾して其翌月二十六日、其交換を了したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。
浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河府中まで上った時に、氏郷の飛脚に逢った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がん為に奥州へ罷《まか》り下《くだ》る、御加勢ありたし、と請うたから家康も黙っては居られぬ。結城秀康を大将に、榊原康政を先鋒《せんぽう》にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許《もと》へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招《よ》ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構《ざんこう》ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其|仔細《しさい》を承わりて、言上《ごんじょう》可申《もうすべし》と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は嘗《かつ》て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、復《また》伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人|扶持《ぶち》を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて信夫《しのぶ》郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理《わたり》郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。所謂《いわゆる》埋没さるること無き英霊底の漢《おのこ》である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に対《むか》って、此戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠《そとぼり》を埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。其の成実を強要して一旦にせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い樽俎《そんそ》折衝に於ても手強《てごわ》いものであった。
其年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携えて名生を発して会津へと帰る其途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子は凡《す》べて長政に合点出来た。長政はそこで上洛《じょうらく》する。政宗も手を束《つか》ね居てはならぬから、秀吉の招喚に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛《じょうらく》した。政宗が必死を覚悟して、金箔《きんぱく》を押した磔刑柱《はりつけばしら》を馬の前に立てて上洛したのは此時の事で、それがしの花押《かきはん》の鶺鴒《せきれい》の眼の睛《たま》は一[#(ト)]月に三たび処を易《か》えまする、此の書面の花押はそれがしの致したるには無之《これなく》、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の眼睛《がんせい》の在処《ありどこ》を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。
政宗は是《かく》の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝《みぞ》の底の汚泥を掴《つか》み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の洒落者《しゃれもの》の山東京伝は曰《い》ったが、秀吉も流石《さすが》に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛虫《さなだむし》や蛔虫《かいちゅう》のようなケチなものではない。三百代言|気質《かたぎ》に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を平《たいら》げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、孰《いず》れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋《どしゅう》で、政宗の為に小苛《こっぴど》い目に逢って終った。
此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒《せんぽう》、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は腫物《はれもの》の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。
多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩《けんか》されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚楽《じゅらく》での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立《かどだ》った日には、両虎|一澗《いっかん》に会うので、相搏《あいう》たんずば已《や》まざるの勢である。刃傷《にんじょう》でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰《とりつぶ》されて終うし、自分も大きな越度《おちど》である。二桃三士を殺すの計《はかりごと》とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては然様《そう》いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為《ふため》であるという秀吉の言には、重量《おもみ》が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待《しょうたい》して太閤《こう》の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻《もど》くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷|贔屓《びいき》なのは知れきった事である。特《こと》に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ迂闊《うかつ》には、と思ったことで有ろう。けれども我儘《わがまま》に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯《ひきょう》である。是非が無い。有難き仕合、当日|罷出《まかりい》で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。
其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷《たんい》の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹|備後守《びんごのかみ》、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の邸《やしき》で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、斯様《こう》いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、所謂《いわゆる》両立《りょうだて》というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負《ひいき》贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右|錯綜《さくそう》させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を何様《どう》組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親であ
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