た時、平兼盛の「陸奥《みちのく》の安達か原の黒塚に鬼|籠《こも》れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談《はなし》は面白い公事《くじ》として名高い談である。其の逸話は措《お》いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎《かんたん》するが実に幽婉《ゆうえん》雅麗で、時や祐《たす》けず、天|吾《われ》を亡《うしな》う、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼《ひりょう》愴凄《そうせい》の威を如何にも美《うる》わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして猶《なお》涙珠《るいじゅ》を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千[#(ノ)]利休を師として茶事《さじ》を学んで、秀吉をして「辺鄙《ひな》の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、
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