じ》踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸《うな》り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第《じゅらくだい》に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂《あふさか》の関の戸|埋《うず》む夜半《よは》の白雪《しらゆき》」などは関路[#(ノ)]雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様《どう》して中々素人では無い。「四十年前少壮[#(ノ)]時、功名聊[#(カ)]復[#(タ)]自[#(カラ)]私[#(カニ)]期[#(ス)]、老来不[#レ]識干戈[#(ノ)]事、只把[#(ル)]春風桃李[#(ノ)]巵《サカヅキ》」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉《はせくら》六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬《ローマ》かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであっ
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