、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。
氏郷は何様《どん》な男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢《としかた》が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀《かたひで》というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に厭《いや》な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風《げふ》おこる、具足を脱ぎやれ法衣《ころも》召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血《のういっけつ》其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶|馬痺風《ばひふう》だの何だのと云
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