三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界《きょうがい》に沈淪《ちんりん》して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂《いわゆる》戦場往来のおぼえの武士《つわもの》が吸寄せられたのであった。
氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも猶《なお》奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下《きか》に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程《さほど》では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護《かば》って遣れ、木村は氏郷を親とも主《しゅ》とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托《かず》けられたようなもので、何事も無ければまだしも
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