れた。小田原の城中に居た佐久間|久右衛門尉《きゅうえもんのじょう》は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々《さっさ》成政の養子で、二人|何《いづ》れも秀吉を撃取《うちとり》にかかった猛将佐久間|玄蕃《げんば》の弟であったから、重々秀吉の悪《にく》しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令《たとい》器量が有っても世の埋木《うもれぎ》にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様《こう》いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒《ふらち》な奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦《さしゆる》し難き者でござると言明すると、何《ど》の家でも其者を召抱えない。若《も》し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰《きゅうせんざた》になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以《ゆえん》である。前に挙げた水野
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