の川にかゝつてゐる橋を渡ると、周圍七里の一大湖は眼前に開けたが、霧が來去するので何程の濶《ひろ》さがあるか朦朧として、たゞ人の想像に任せるものとして見えたのも却つて興があつた。以前は橋を渡らずに二荒山《ふたらさん》神社の方へ湖畔に沿うて行つて、そこらに點在する旅館に泊つたものであるが、われ等は歌が濱の米屋といふに着いた。樓に上つて欄によると、湖を壓《あつ》して立つてゐる筈の男體山《なんたいざん》もぼんやりとして、近き對岸の家々の燈火《ひ》も霧のさつと風に拂はれる時は點々と明るく、霧のおほひかゝる時は忽ち薄れ忽ち見えずなつた。雲霧は山につきものであり、塵埃は都の屬物《つきもの》であるが、萬丈の塵は景氣が好い代りに少し息苦しい。山の湖の霧は凉やかでこそあれ、安らかに吾人の睡眠《ねむり》を包んでくれた。夢を訪《と》ふものは銀鈴を振るやうな河鹿の聲ばかりであつた。

    三

 平和の夢からさめて十日の朝だなと意識した時には、昨夜は少し厚過ぎるやうに思つた夜被《よぎ》も更に重く覺えなかつた。湖に面した廣縁に置かれた籐椅子によつて眺めると、昨日は水の面をはつて一望をたゞ有耶無耶《うやむや》の
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