ぎ失せてしまふのも一種の快味がある。これからの人々は自動車ぐらゐは自分で操縱して、遊覽旅行の一程にドライブの一項を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入するやうにならうと想つた。
關谷からは鹽原山である。入勝橋あたりからの道路は實に樂しい美しいところだ。路幅《みちはゞ》はあり、屈折は婉曲であり、樹蔭は深いし、左手の帚川の溪は眼に快いし、右手の山は高し、時々小瀑布を景物に視《しめ》すし、山嵐溪風いづれにしても人の膚《はだへ》に清新其物の氣味を感ぜしめる。必ずしも取出でゝ一々何の景彼の勝といふを須《もち》ひない、全體が一致して人に清凉感を起させるのである。花氣人を襲ふ、必ずしもその薔薇たり芍藥たるを問はずして名園の春に醉ふやうに、何が齎《もたら》すといふことも無しに鹽原の溪は人を好い氣持にする。松、五葉松、楢、桂の類から、アクダラの樹や橡《とち》の樹のやうな樹でも、それが損傷《そこな》はれずに老いて巨大になれば、それ/″\の美しさをもて人に酬いる。日光でも鹽原でも箱根でも、今は景勝地の人民は樂しんで樹木を大切にする。それは眞にその土地を愛し、且土地を品
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