る傾斜もない野を知らず識らずに上つて戰場ヶ原にかゝる。古は湖底か沮洳地《そじよち》ででもあつたかと思はれるのが戰場ヶ原である。可《か》なり濶い面積の平野に躑躅や山菖蒲が咲いてゐて高原氣分を漂はせてゐる荒寞の景が人を襲ふが、此處《こゝ》は雪がまだ山々にむら消《ぎえ》むら殘りの頃か、さなくば秋の夕べの物淋しい頃が、最も人に浸《し》み入る情趣をもつところで、日光や中禪寺の人々が「歡《よろこ》びの花」といふよしの躑躅花(この花が咲けばやがて多くの遊覽者が入込んで土地がにぎやかに潤ふ)が咲いてゐる、今はむしろ特有の持味を漲《みなぎ》らせてゐないのを遺憾とする。
 車はやがて湯元に着いた。湯の湖《うみ》は左手にその幽邃味の溢るゝばかりなすがたを、沈默のうちに見せてゐる。湯元は山奧の突き當りのやうな感じのする地であり、古風の湯宿と今樣《いまやう》の旅館とが入り交つてゐる温泉《ゆ》の香《か》の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着《おちつ》かせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。
 一浴して晝餐を取ると、村の人々が東京日日に對する好感を表示して訪うてくれた。その人々に擁さ
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